坂東玉三郎にとっての「女方」とは一体何なのか。
この事を調べてゆく中で私は、自分がこれまで「女方」に大きな誤解をしていたことに気づいた。そもそも、女方とは歌舞伎という舞台芸術の中で、男性が女性を演じるというとりわけ妙な存在である。私は、それはかつての男性優位だった日本社会の遺産であったり、体力的に不可能であったり、などとまるで性差別の名残のように捉えていた。だが、女方はそんなものではなかった。それは、もはや究極の芸術作品であると坂東玉三郎は主張しているように私には思われた。
何故わざわざ男性が女を演じるのだろうか、これを彼のエッセイなどから考えてみたい。まず、女方の一つの特徴として両性具有性があげられる。女でもなく、男でもない。また、男でもあり、女でもある。これは万能である神を連想し、また演技は憑依という霊的な意味でも説明できるのだとHPには書かれている。だが、もちろんそれだけではない。女方が両性具有性を有することによって、歌舞伎という芸術の門を広げているのではなかろうか。「男の、男による―男のための舞台」これでは男性しか理解できないものとなるだろう。
坂東玉三郎にとっての「女方」とは一体何なのか。
この事を調べてゆく中で私は、自分がこれまで「女方」に大きな誤解をしていたことに気づいた。そもそも、女方とは歌舞伎という舞台芸術の中で、男性が女性を演じるというとりわけ妙な存在である。私は、それはかつての男性優位だった日本社会の遺産であったり、体力的に不可能であったり、などとまるで性差別の名残のように捉えていた。だが、女方はそんなものではなかった。それは、もはや究極の芸術作品であると坂東玉三郎は主張しているように私には思われた。
何故わざわざ男性が女を演じるのだろうか、これを彼のエッセイなどから考えてみたい。まず、女方の一つの特徴として両性具有性があげられる。女でもなく、男でもない。また、男でもあり、女でもある。これは万能である神を連想し、また演技は憑依という霊的な意味でも説明できるのだとHPには書かれている。だが、もちろんそれだけではない。女方が両性具有性を有することによって、歌舞伎という芸術の門を広げているのではなかろうか。「男の、男による―男のための舞台」これでは男性しか理解できないものとなるだろう。また、もし「男は男による、女は女に...