デカルトは「近代哲学の父」と言われ、「近代」というと良くも悪しくもデカルトが引き合いに出される。それは必ずしも彼から近代が始まったというわけではなく、彼の思想が近代という時代のあり方を典型的に示しているからであろう。
デカルトの関心は、「確実な知識とはどういうものか」ということである、しかし、絶対的に確実な知識とはいったい何なのか。なぜ私たちは学校の先生が言うことや、本に書いてあること、テレビのニュースを信じているのか。ほとんどの人はそれを確かめたことがない。だとすれば、それは本当に確実な知識といえるのだろうか、それは信念ではないのか?
デカルトは世間の一般的な知識は、多くの先入観を含んでいてそれは確実な知識ではないと考えた。デカルトが疑問を持ったのはスコラ哲学を中核とする中世からの伝統的な学問であるが、デカルトの疑問の芯は中世だろうと近世だろうとおよそ人間が何かを知ろうとするときに陥ってしまう誤りに対する反省である。それは主に二つ、(1)伝達情報の不確実さ{一般的に経験に先立つ知識に関して} (2)自分の経験の不確実さ{デカルトは夢の例を出しているが現代風に言えば仮想現実に関して}。そこでデカルトは確実な知識を得るための方法として、一切のものを疑ってみて、疑い得ないものがあるかどうかを探してみるという方法を採った。
方法的懐疑からコギトへ
デカルトは「近代哲学の父」と言われ、「近代」というと良くも悪しくもデカルトが引き合いに出される。それは必ずしも彼から近代が始まったというわけではなく、彼の思想が近代という時代のあり方を典型的に示しているからであろう。
デカルトの関心は、「確実な知識とはどういうものか」ということである、しかし、絶対的に確実な知識とはいったい何なのか。なぜ私たちは学校の先生が言うことや、本に書いてあること、テレビのニュースを信じているのか。ほとんどの人はそれを確かめたことがない。だとすれば、それは本当に確実な知識といえるのだろうか、それは信念ではないのか?
デカルトは世間の一般的な知識は、多くの先入観を含んでいてそれは確実な知識ではないと考えた。デカルトが疑問を持ったのはスコラ哲学を中核とする中世からの伝統的な学問であるが、デカルトの疑問の芯は中世だろうと近世だろうとおよそ人間が何かを知ろうとするときに陥ってしまう誤りに対する反省である。それは主に二つ、(1)伝達情報の不確実さ{一般的に経験に先立つ知識に関して} (2)自分の経験の不確実さ{デカルトは夢の例を出しているが現代風に言...