W0103 社会福祉史 ①地域の相互扶助の制度化である江戸時代の町会所救済について述べよ。 5月午前
町会所とは、近世における重宝の自治機関あるいは事務所のことを言う。町寄合の会所である。町方運営の救済機関の名称である。
江戸の人口集中の急激に伴い、その日の賃金で家族の生活を支える「其日稼之者」が、この時期に町方人口の5割を超えた。その中で、米価の高騰が多数の生活困難をもたらし、都市の騒乱である打ちこわしの原因となった。その打ち壊しの中で天明の飢饉がとりわけ深刻であったため、この相互扶助の制度が出来上がるのである。
江戸の地主階級が負担する町費すなわち町入用を節減するため、天明五年より寛政元年まで五ケ年平均の町入用を算出させ、その額より出来る限り節約した町入用節減高を書出させて、節減を実行させ、その節減額の十分の七を備荒貯蓄のための積金並びに米穀購入費に充て、会所と籾蔵(もみぐら)を向柳原に設立した。これが江戸の救済事業機関たる町会所であった。町会所は七分積金を取扱い、それによって備荒のための事務や市民の救済事業を行う事務所といえる。この町会所の設立によって江戸の市民が不時の災害から救われた数はおびただしいものであって、又一般貧困者も会所支給の米金によって大きな恩恵を蒙ったこと言う迄もない。
その救済は、「定式御救」とされる日常的な生活困難者への町名主の申告による救済、「臨時御救」とされる町方人口の2分の1ないし3分の2の2カ月分のコメを確保する臨時の大規模救済、「貸付」とされる中流以下町人への低利融資などがある。
この3種類に分かれて整備された町会所における救済は、その財源のほとんどが町方財源から捻出しており、その救済率を正確に知ることはできないが、イギリス救貧法に匹敵するものであったと考えられる。
②明治後期半期に本格化する慈善事業について、具体例をあげながら、近代日本の慈善事業の特徴と問題を述べよ。 5月午後
明治後半気に本格化する慈善事業で、特に本格的な展開を見せたものとしては、児童保護事業であるといえる。これは、孤児、棄児、迷児、貧児への人道的な保護収容事業で、宗教関係者による活動が注目されているが、あわせて保育事業など親の就労を保障する棒貧的な事業が開始され始める。
主な具体例として、育児事業分野では石井十次によって設立された岡山孤児院があげられる。これは、キリスト教信仰にもとづく人格主義的な児童の養育を実施し、その規模や処遇の新しさなどでこの時代の代表的な施設といえる。イギリスのバーナードホームに習った小寮舎制、親のない子供を一般家庭で育てる里親制、密室教育、満腹主義、労働自活と教育など石井が掲げた養護方針は、子供たちを一人の人間として尊重し育成するというもので、近代の自由な人間観に裏付けされた実践方法であったいえる。
その他の具体例と言えば、小橋勝之助の博愛社、三陸津波をきっかけに創立された孤児院教育院を受け継いだ「北川はつ」の東京孤児院がある。
また、非行・犯罪少年に対する保護事業である感化事業などがある。
これらの特徴として、迷事前破棄に多かった窮民施設が混合収容であったこととくらべて、徐々に児童施設を分離させていくことで、養老施設化が進み始めたのが特徴の一つである。また、用が維持保護事業の分野は、児童保護事業の中でもなかなか光が当たらなかったが、石井十次などの活動によって、このころから注目され始めるのである。
その問題点としては、民間事業は周囲の理解を得ることに困難を極めつつ個人の私費を投じながら財政的にも不安定な経営の中で取り組まれていったものが多いのである。また、全体的に事業の不十分さはあり、1911年の内務省調査では、窮民収容施設42カ所のほかに養老院の名称の施設は17カ所であり、あわせて1500名程度の収容者を数えたが、救済を必要ロする高齢者に十分対応していたとはいえない。
日本では、公共救済は慈恵的に位置付けられ、自由な個人の善意による慈善事業の進展を支えていく市民的な自由を未成熟なままに押しとどめてきたことが、慈善事業の運営を極めて困難にする要因となっていたといえ、問題であるといえる。
③1874(明治7)年に制定された恤救規則について、その内容と近代日本の公的救済の特質を述べよ。 7月午前
恤救規則は、近代日本最初の救貧法制である。これは、幕府や諸藩の慈恵策を天皇制国家により再編したものであり、地域の相互扶助からはずれた無告の窮民のみを対象する救済であった。
恤救規則の概要
対象者は、「廃疾」者・70歳以上の老衰、重病者、長病者、13歳以下の幼児が、極貧で労働能力がなく、親族や地域の援助が得られない「無告の窮民」である場合である。
その支給額は、先月の下等米相場をもとに算出された米代である。基準は、廃疾者と70歳以上の老衰、重病者の場合で、年間一石八斗(1日約五合弱)13歳以下の幼者7斗、長病者は一日当たり男3合女2合分である。
その実施の主体は内務省であった。
特徴① 対象を労働能力を持たないだけでなく、親族や地域での相互扶助の対象になら
ない「無告の窮民」に限定した、制限救助主義であったこと。
特徴② 公共的な救済は中央政府「おおやけ」の救済に限定したこと。
特徴③ 慈恵主義であり、感知主義による制限救済の方式を支えた理念であること。
この3つの特質は相互に密接に関連するものであり、近代国家の救済を天皇の慈恵として位置付けることにより、制限救助主義が可能となったのである。これらの特質は、救済に対する日本国民の権利意識を遠ざけるものであったといえる。
この恤救規則にこめられた公共救済の方針が、その後の生活支援策全般に及ぼした影響は極めて大きいといえる。
④1930年代以降に展開されていく戦時下の厚生事業について、その内容と特質を説明せよ。 7月午後
1938(昭和13)年、厚生省を設置し「社会事業法」制定。戦時厚生事業が始まる。 厚生事業とは、戦時的状況での社会事業の一形態である。1937年に始まる日中戦争を契機として,国民精神総動員運動が提起され、国民を戦争に動員する動きが加速されていく。
軍事扶助法の制定,厚生省の新設,1938年には国家総動員法され、物資、労働、賃金、施設、出版物の人的、物質資源を国が動員できる体制が打ち出される。同年には、職業紹介法の改正で職業紹介の国営化を図り国民徴用令が公布され、軍事産業中心に労働力を強制的に再配置し、学生や女性を勤労動員したばかりでなく、強制連行された朝鮮人労働者も充当されていった。こうして、国家が戦争目的のために全面的に人的資源をコントロールするという体制が構築されたのである。
これらの過程を経て,それまでの社会事業が厚生事業と改められた。日中戦争から第二次世界大戦敗戦までの期間が該当する。背景には,戦争状態において一時的に生活困難に陥った者に対しての救済を従来の社会事業の対象者とは区別し,また戦争遂行のための健民健兵政策としての人的資源の保護育成がある。 厚生事業問題は、(1)人的資源としての人口問題(2)体位の低下にともなう保健・医療問題(3)将来の人的資源としての児童問題、(4)国民生活の退廃から生じた非行・犯罪問題(5)空襲他の戦時災害問題(6)貧困問題に分類できる.
この厚生事業の大きな特徴としては、「人的資源の維持培養」を主目的としたものであった、人的資源になりえないと判断された人々に厳しい状況をもたらしたことがこの厚生事業の特徴であった。したがって、厚生事業から取り残された障害児や施設保護の対象者たちは、戦争に協力しえない階層という認識による差別ももたらせたのである。
⑤大正期に成立した方面委員制度について、その地域委員としての意味にふれながら説明せよ
この制度は、大阪府知事林市蔵が、府の最高嘱託であり社会事業の権威とされた小河滋次郎博士の協力を得て、考案・創設されたものである。本制度は、名称を「方面委員」と名づけ知事の委嘱による名誉職とするものであった。ここでは、市町村小学校通学区域を担当区域とし,職務は区域内の一般生活状態の調査と生活改善方法の攻、要救護者各個の状況調査と救済方法の適否の攻究、救済機関の適否調査と要新設機関の攻究、日用品受給状態の調査と生活安定方法の攻究などであった。
特に、本制度の特徴は、 ①「社会測量」を重視して、これを二つに分け、いわゆる社会調査(社会的健康診断)
ケース・スタディ社会的対処診断)を通して濫給・漏給を防ぎ、効果的・合理的・徹底的な救済を行おうとしたこと。
②委員の選任については、「無産階級に接触する機会の多い職業」の者で「当該地方土着または準土着の常識的人格」を具備する人物を選び、民間篤志家による民間社会事業の発達を期待したものであったことに注目したい。
以上の二つの制度の創設が発端となって、この種の制度はその後各府県独自の名称に基づいて次々と全国各地に波及し、昭和初期にはほとんどの府県に類似の委員制度が創設され、地方の任意的制度として全国的なものになっていったのである。
○昭和の大恐慌の時期に成立した救護法について、その内容と特色について説明せよ。
救護法は、さまざまな理由で生活できない者を救護する法律である。昭和4年法律39号。 この法律は、昭和4年4月2日公布、昭和7年1月1日より施行され、 昭和21年、生活保護法(法律第17号)により、昭和21年10月1日をもって廃止される。
救護法の内容とは
対象者は、65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦、傷病や心身障害により働くこと...