1.蔵作りの町並み
川越の町並みの歴史−明治26年の大火で1/3以上を焼失したまちの復興にあたり、江戸文化の影響を受けていた川越商人は東京にならい、耐火建築である土蔵造りを採用。明治40年(1907)ごろまでに蔵作りの町並みが形成された。大正時代になると、洋風外観の建物が多く建てられるようになり、以後伝建築に決定された地区および、その周辺には各時代の特色を反映した建築物が共存するようになった。
その特徴として間口が狭く奥行きの長い敷地が並ぶ。多くの建物は通りに面した場所では軒を連ねているが、それぞれ中庭を持ち、商業としての家屋と住宅としての家屋の2面性を備えている。主に家の四面を土や漆喰で塗った構造である土蔵造りの建物が並ぶ。大火で焼失した経験を生かし、耐火建築となっている。この地域は観光地となっていることもあり、建物としては飲食店や物販、博物館など様々な用途で利用されている。住宅としても使用されているが、今回それを実際に確認することはできなかった。
川越という都市景観
1.蔵作りの町並み
川越の町並みの歴史-明治26年の大火で1/3以上を焼失したまちの復興にあたり、江戸文化の影響を受けていた川越商人は東京にならい、耐火建築である土蔵造りを採用。明治40年(1907)ごろまでに蔵作りの町並みが形成された。大正時代になると、洋風外観の建物が多く建てられるようになり、以後伝建築に決定された地区および、その周辺には各時代の特色を反映した建築物が共存するようになった。
その特徴として間口が狭く奥行きの長い敷地が並ぶ。多くの建物は通りに面した場所では軒を連ねているが、それぞれ中庭を持ち、商業としての家屋と住宅としての家屋の2面性を備えている。主に家の四面を土や漆喰で塗った構造である土蔵造りの建物が並ぶ。大火で焼失した経験を生かし、耐火建築となっている。この地域は観光地となっていることもあり、建物としては飲食店や物販、博物館など様々な用途で利用されている。住宅としても使用されているが、今回それを実際に確認することはできなかった。
また蔵作りの町並みが保全されるようになったのは、昭和40年代後半から市民による蔵造りの保存運動が始まりである。...