凶悪事件から考える実名報道
1988年11月から1989年の1月にかけてある凶悪な事件が発生した。女子高生コンクリート詰め殺人事件である。加害者は当時全員未成年であったが、一部の報道機関が少年らの実名を大々的に報道した。彼らの人権は社会に無視されたのだ。実名報道をした週刊文春は理由として「事件があまりにも残虐だったため」「野獣に人権はない」としている。この事件から既に19年。その後を調べていくと、様々な問題が残されたままであることがわかる。被害者の遺族が事件の影響で病に倒れ、犯罪被害者を救済するシステムが整備されていないことを露呈した。また、一部の少年はすでに少年刑務所や少年院を出たものの、ある少年はそこで精神を病み、更生や社会復帰からはほど遠いものとなっている。犯人の矯正プログラムや犯罪被害者をケアする法的整備は今も万全とはいえない。この事件における実名報道は果たして意味があったのだろうか。当時は犯罪の低年齢化に対する問題提起を行ったと認識されたが、その後も少年法にはなんら変化もないので、実名報道は無意味なものであっただけではなく、加害者のその後の社会復帰に悪影響をもたらしたと考えられる。
事件の経過は以下である。数名の少年が女子高校生を41日間にわたり仲間の自宅2階の居室に監禁し、レイプ行為や苛烈な暴行を繰り返した挙句、被害者は死亡。死体の処理に困った加害者達は遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにして東京都江東区若洲の埋め立て地(現在の若洲海浜公園敷地内)に遺棄した。
1989年(平成元年)3月29日、別の事件で逮捕された際の取調中の加害者の供述により、被害者の遺体が発見されたことから事件が発覚した。 犯人が被害者の死亡に気づいたのは同年(昭和64年)1月5日。
事件の詳しい経過を調べてみて感じたのは、加害者らには人間らしい心が無いということだ。週刊文春が実名報道をする経緯に至ったのもうなずけるかもしれない。しかしだからといって、事件当時未成年であった加害者らの未来まで実名報道により奪ってもいいのかというと、そうではないはずだ。新聞社やテレビ会社などのメディアはいたずらに実名を報道することによって読者の好奇心を刺激したいだけに過ぎない。どうしても実名報道をしたいのなら、当事者に許可をとってするべきである。
2005年4月には個人情報保護法が施工されたが、メディアはその法律の範疇には入っていない(50条)ので、自主的に犯罪者などの実名報道を控えるべきだと思う。また、新潟県中越沖地震では、要援護者名簿の取り扱いに問題点が表面化した。自治体が保有する要援護者名簿が町内会に共有されていれば、地震の死者を減らせた可能性がある。その一方で、名簿が悪徳業者に流出すれば、悪徳リフォームなどに巻き込まれる危険性も伴う。更に、小中学校の学級緊急連絡網リストや企業の社員住所録が拡大解釈で作成出来なくなる事態も起きているなど、個人情報の過保護による問題も起きている。全ての個人情報を完璧に守るというのは不可能だし、上記のような不具合も生じている。個人情報保護法は本当は必要ないんじゃないのかというのが、正直な思いだ。
産業社会学部3回生14330600765 北川淳
2008/07/29