?二世皇帝即位から秦の滅亡まで
胡亥は秦の始皇帝の末子である。始皇帝が年老いてからできた子供だったためか、彼に大変寵愛されたと伝えられる。
紀元前210年七月、始皇帝が巡幸中に病没した。しかし付き従っていた宦官の趙高と丞相の李斯はその死を隠し、皇帝の遺書を改竄して、第一太子であった扶蘇とその部下蒙恬に自害を強いた上で、末子の胡亥を二世皇帝として即位させた。さらに趙高は、胡亥の即位に否定的な意見を示した他の公子や宗族、果ては始皇帝時代の大臣までをも殺させ、実質的に帝国の実権を握った。
帝位についた胡亥は、始皇帝の遺体を陵墓に埋葬し、また様々な宝物を副葬することを最初の仕事とし、さらに、始皇帝時代から建造中であった宮殿を完成させるために数多くの人民を動員した。そのため国民は疲弊し、その上大量の食料の徴収も行われたため、次第に王朝への反感が高まっていった。その後、陳勝・呉広の乱を初めとして中国各地に反乱が勃発、自らの保身を図る趙高によって胡亥は追い詰められ、自害させられてしまう。
その後再び趙高の手によって胡亥の兄の子、子嬰(扶蘇の子とも言われる)が秦王として即位した。しかし子嬰は、趙高が反乱軍と通じて自分を害そうと考えていると疑い、罠にかけて殺してしまう。
二世皇帝即位
①二世皇帝即位から秦の滅亡まで
胡亥は秦の始皇帝の末子である。始皇帝が年老いてからできた子供だったためか、彼に大変寵愛されたと伝えられる。
紀元前210年七月、始皇帝が巡幸中に病没した。しかし付き従っていた宦官の趙高と丞相の李斯はその死を隠し、皇帝の遺書を改竄して、第一太子であった扶蘇とその部下蒙恬に自害を強いた上で、末子の胡亥を二世皇帝として即位させた。さらに趙高は、胡亥の即位に否定的な意見を示した他の公子や宗族、果ては始皇帝時代の大臣までをも殺させ、実質的に帝国の実権を握った。
帝位についた胡亥は、始皇帝の遺体を陵墓に埋葬し、また様々な宝物を副葬することを最初の仕事とし、さらに、始皇帝時代から建造中であった宮殿を完成させるために数多くの人民を動員した。そのため国民は疲弊し、その上大量の食料の徴収も行われたため、次第に王朝への反感が高まっていった。その後、陳勝・呉広の乱を初めとして中国各地に反乱が勃発、自らの保身を図る趙高によって胡亥は追い詰められ、自害させられてしまう。
その後再び趙高の手によって胡亥の兄の子、子嬰(扶蘇の子とも言われる)が秦王として即位した。...