我々に最も身近である20世紀美術、すなわち20世紀の西洋絵画は、純粋芸術といわれるものであるために何らかの意味内容を読み解く必然性はない。何故なら、何らかの意味内容が込められていないからである。例えば、パブロ・ピカソの「ゲルニカ」は、古都ゲルニカへの爆撃による被災を題材にしているが、それは単なるモチーフであって作品の意味内容でも本質でもない。その作品の本質とは、ピカソが織り成す造形の美、すなわち色や形や構図のリズムである。それはピカソの感性に立脚しているものであり、まさしく作品の本質であると私は考える。概して20世紀の美術作品の本質は感性に立脚している。したがって、知性に基づく「意味内容を読み解く」という手段を講じる必然性はない。
それとは相反して、中世美術は、純粋芸術ではなく、しかし造形の美が作品の本質ではないとは言い切れないが、少なくともそれはその作品の本質の一部分に過ぎない。中世美術の作品の本質の主たる部分は、何らかの意味内容で占められている。その作品の主たる本質を捕らえる手段は知性に拠るものであり、20世紀美術作品の本質を捕らえる手段、すなわち個人の感受性に拠る方法とは相対するものである。
図像とは、造形作品における構図やモチーフやその形に、何らかの意味内容が込められたものである。込められているその意味内容とは、宗教的なものであったり、それを教育するためのものであったりする。図像をともなっている芸術は、芸術のための芸術という20世紀の純粋芸術と相反するものである。また、図像学とはその意味内容を読み解く手段である。以下、まず図像とは何かについて具体例を挙げながら述べていく。次に図像学とは何か、またその必然性について中世美術と20世紀美術とを比較しながら考察する。
造形作品に何らかの意味内容が込められたものといえば、様々なものがある。例えば、絵画の始原であるラスコー壁画やキリスト教美術、仏教美術の作品群はどれもそれぞれ何らかの意味内容を含ませている。
フランスに旧石器時代のマドレーヌ文化時代のラスコー洞窟壁画である「オーロックスと馬の群れ」という作品がある。これは一見すると、現代から見れば子供の描いたような拙さをともなう絵だが、これを描いた動機は、子供のような純真無垢な要求によるものではなく、狩猟祈願や、自然のうちにある動物に対する畏敬の念や、呪術的な意味を含ませるため...