私は障害を持っているという理由で教育が無意味であると考え、それを怠るのは間違っていると考えています。できないからといって刺激を与えずにいれば、その子はそのままできないままです。ここで言う刺激とは、一般的に言われている「健常な子どもたち」と共に過ごすという、まさに統合保育のことです。具体的な例としてレジュメの事例を挙げさせて頂くと、Rちゃん(男児)は、5歳の男児が立って排尿している姿を見て何度かマネることによって、Rちゃんも立って排尿する成功率が高くなったなどのことです。
(1)「障害を持つ子」の教育のありかたについて
私は障害を持っているという理由で教育が無意味であると考え、それを怠るのは間違っていると考えています。できないからといって刺激を与えずにいれば、その子はそのままできないままです。ここで言う刺激とは、一般的に言われている「健常な子どもたち」と共に過ごすという、まさに統合保育のことです。具体的な例としてレジュメの事例を挙げさせて頂くと、Rちゃん(男児)は、5歳の男児が立って排尿している姿を見て何度かマネることによって、Rちゃんも立って排尿する成功率が高くなったなどのことです。Rちゃんは5歳の男児から刺激を受けて、それによって成長したのです。この刺激がなければ、もしかしたらRちゃんは立って排尿しようと思うことすらなかったかもしれません。このようなことは、他の事例にも言えることだと思います。つまり、刺激を受けることによって障害を持つ子の発達が促進される場合があるということです。まねること、そしてまねる対象が身近にいることの意義は非常に大きいと私は感じました。この手本になるということは、保育士よりもより近い目線にいる子どもたちの方が適任なのでしょう...