今回取り上げた史料は、講義の中でも扱った、大日本大日本古文書『幕末外國關係文書』五、二十と、嘉永五年別風説書『通航一覧續輯』四と、外務省編『日露交渉史』だ。
これを用いて、ペリー艦隊の来航から開国、条約調印までの日本史における問題点、疑問点について論じていきたいと思う。
長い間、日本史は世界史との分離という、切り離された歴史研究をしてきた。しかしこの考え方では、様々な歴史上の問題、とりわけ外交な問題についての回答が困難と言えるだろう。一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀にペリー艦隊が来航したことは周知の事実に他ならないが、このことを日本史ではなく、世界的な外交史からみることはできないだろうか。
従来私達は、アメリカの擁する強力な大砲と蒸気船という先端技術を持ったペリー艦隊に、幕末の日本人が軍事的圧力をかけられたために恐怖心とともに屈服させられた、と認識してきたはずである。
しかし庶民は来航の直後から、小船をくりだし、また陸路やってきては「黒船見物」をしていたのだ。もし恐怖心のみが当時の民衆の心情を支配していたのなら、このような態度はありえないのではないだろうか。圧倒的な武力が迫ってきて、自分達の生活や生命を脅かすかもしれないと理解していながらも、脚立まで使って黒船を見物する民衆。客観的に見ると、滑稽で、かつ相当頭が悪く感じる。
私達現代人は、遠い昔であればあるほど、無能で理解力がなく、知能が低い、と錯覚してしまいがちだ。しかし当時の民衆がそこまで低レベルな理解力だったとは、やはり考えられない。
日本近代史における問題提起を行うにあたって私が今回取り上げた史料は、講義の中でも扱った、大日本古文書『幕末外國關係文書』五、二十と、嘉永五年別風説書『通航一覧續輯』四と、外務省編『日露交渉史』だ。
これを用いて、ペリー艦隊の来航から開国、条約調印までの日本史における問題点、疑問点について論じていきたいと思う。
長い間、日本史は世界史との分離という、切り離された歴史研究をしてきた。しかしこの考え方では、様々な歴史上の問題、とりわけ外交な問題についての回答が困難と言えるだろう。一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀にペリー艦隊が来航したことは周知の事実に他ならないが、このことを日本史ではなく、世界的な外交史からみることはできないだろうか。
従来私達は、アメリカの擁する強力な大砲と蒸気船という先端技術を持ったペリー艦隊に、幕末の日本人が軍事的圧力をかけられたために恐怖心とともに屈服させられた、と認識してきたはずである。
しかし庶民は来航の直後から、小船をくりだし、また陸路やってきては「黒船見物」をしていたのだ。もし恐怖心のみが当時の民衆の心情を支配していたのなら、このような態度はありえ...