【2010秋学期】現代思想:最終レポート

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    資料紹介

    資料の原本内容

    2011 年 1 月 26 日提出
    総合政策学部 1 年 71001943
    柏野尊徳(かしの・たかのり)

    現代において他者と『共に生きる』のための思想的考察:
    いかなる態度を保持しながら、対立する価値観と共に生きるべきか
    はじめに
    レポートの目的
    このレポートの目的は、主に第三回授業(2010/10/14)内で扱われたヒューマニズムと唯物
    論の対立を取り扱いながら、現代において他者と『共に生きる』ための思想的考察を試みることで
    ある。具体的には「対立する価値観を前にして、いかなる態度で共に生きるべきか」というテーマを
    土台にして、授業レジュメ及び授業内容も参考にした上で「神=人間の人間主義1」を掲げるリュッ
    ク・フェリーの主張と、(哲学的)唯物論を「ひとつの存在論/ひとつの世界観2」として捉えるアンド
    レ・コント=スポンヴィルの主張について考察する。
    問題意識と思索の意義
    今回のテーマ設定の背景には「現代において他者と共に生きる上で、価値観対立の問題を避け
    て通ることはできない」とする共生に対する問題意識が存在している。政治的・経済的にも社会に
    おけるグローバリズムや多様性の追求が当然視されているが、その様な社会が実現することでど
    のような問題が発生するのか、その問題に対していかなる対応を行なうのかといったことは、あまり
    語られていないように感じられる。ほんの少しでも、今後の社会問題やその問題解決に今回の思
    索が寄与すればと考えている。
    構成と要旨
    思索をより明確なものにするために、以下唯物論に焦点を当てて次の手順にて議論を展開する。
    第一章:フェリーとコント=スポンヴィルが主張する唯物論の性格について記述し、それぞれどの
    ような唯物論を想定しているのかその違いも意識しながら唯物論の概要について触れる。第二章:
    なぜ唯物論に対する認識に差異が発生したのかを検討しながら、唯物論に投影された両者の価
    値観、生きることへの態度について考察する。
    最終的に、価値観の対立を乗り越えるには「人間そのものにいかなる価値を見いだしうるか」「い
    かなる価値が我々には存在するか」といった「人間の価値」に対する思索が不可欠であり、その思
    索的態度を共通の基盤にすれば、現代において他者と共に生きる事が可能になることを示唆した
    い。
    なお、以下特に注が無い限り、フェリーとスポンヴィルの発言要約は全て第三回授業資料 3 によ
    るものとする3。また、今回は当授業及び研究会選抜用としてまとめたフェリーとコント=スポンヴィ
    ルに関するレポートを総合的に再構築することで、過去の蓄積の上にさらなる積み重ねを行なう思
    索的試みを実践する。

    1

    大戸(2010)
    清水(2010)
    3 詳細は参考文献一覧を参照
    2

    2011 年 1 月 26 日提出
    総合政策学部 1 年 71001943
    柏野尊徳(かしの・たかのり)

    第 1 章 唯物論の概要 ――フェリーとコント=スポンヴィルの主張を通じて――
    以下、1)唯物論は大きく分けて通俗的唯物論と哲学的唯物論の 2 種類が存在すること、2)哲
    学的唯物論であっても還元主義と決定論となる特徴を抱えていること、3)唯物論にも 2 つの魅力
    が備わっていること、について順に提示する。
    1.1 通俗的唯物論と哲学的唯物論
    一般的に唯物論(マテリアリズム:Materialism)が言及されるとき、場合によって異なる 2 つの
    唯物論を提示していることがある。一つが通俗的唯物論とよばれる理想主義的性格のものであり、
    もう一つが哲学的唯物論とよばれる観念論的性格のものである(清水, 2010)。
    哲学的唯物論としての唯物論は、コント=スポンヴィルによれば「ひとつの存在論――存在につ
    いての理論――、あるいはひとつの世界観」( p.12)であり、フェリーによれば「精神の活動が物質
    によって生み出され、しかも決定されているとする立場のこと」(p.4)である。以下、哲学的唯物論に
    ついて述べる。
    1.2 唯物論の特徴 ――還元主義と決定論――
    哲学的唯物論には 2 つの大きな特徴がある。還元主義であり決定論であるということだ。唯物
    論者であることは、そのまま還元主義者になることであり、決定論者になることを意味する。そして、
    物事の真実や意味合いは物質的な存在に依存してしまうことを認めざるを得ないため、すべての
    価値は相対的なものになる。
    フェリーは以上のようなことを踏まえて、唯物論者であることは、感性を超越した理性の働きや、
    人間に対して超越的存在とされる神、一般的には非物質として考えられる魂などが、一切存在し
    ないと考えていることを意味すると述べる。さらに、唯物論が脳科学や神経生理学の進歩をとおし
    て正当性を取り戻しつつあるとフェリーは付け加えている。
    では、コント=スポンヴィルはどのように考えているのだろうか。まず、フェリーの主張を受けて、
    唯物論が科学のみによって構成されているのではないことを述べる。そして、唯物論は科学を乗り
    越えていくことを正当としており、その根拠は哲学にあるとする。これは、哲学の特徴にある。彼によ
    れば、現在自分が知っている先の事――知らないこと――について考える行為こそが哲学とはだ
    からである。このような哲学のあり方と、フェリーも言及した脳科学や神経生物学を代表する諸科
    学を混同しないことが、唯物論存在のために必要であると彼は考えている。
    1.3 唯物論の魅力
    以上のように両者の態度にはいくらかの違いが見受けられるが、ここではさらにフェリーが述べ
    た唯物論の魅力について言及したい。フェリーは、唯物論は還元主義でかつ決定論であるため、
    絶対的なものが相対的なものへと変わってしまうと主張しているのだが、だからといって唯物論に
    は全く価値がないと考えているわけではない。やや皮肉的な側面も見られるが、唯物論には 2 つの
    魅力があると論じている。
    1 つが、唯物論には人々が疑いもなく信じている常識ですら、徹底的に解明しようとする姿勢が
    みられることである。もう 1 つは、唯物論者は理念ではなく事実から物事に関心を寄せるため、とり
    とめもない哲学を語ることに比べれば、興味深い現実に光を照らすという点で評価できる部分もあ

    2011 年 1 月 26 日提出
    総合政策学部 1 年 71001943
    柏野尊徳(かしの・たかのり)

    るという点だ。
    以上の 2 点を魅力として提示しながらも、フェリーは還元主義者の代表的存在であるフロイトや
    ニーチェ、マルクスの名前を上げながら、彼らの考えや発見、アイデアそのものに価値があるのかど
    うか極めて懐疑的な態度をみせている。
    第 2 章 唯物論から考察する自律性・超越性・自由
    2.1 フェリーの視点
    フェリーは、唯物論がいかに人間の自由や自律性の存在を否定しているかを示唆するために、
    唯物論者が見せがちな 3 つの態度について批判的に言及する。1 つ目が、還元主義だという指摘
    を避けようとするために、「環境」も人間の行動に影響を与えていると主張し、あたかも還元主義で
    はなく決定論ではないとするような態度についてである。フェリーは、このような態度について「一
    つの決定論にもう一つの決定論を付け加えることになるだけ」(p. 5)と喝破している。
    2 つ目は、同じく還元主義を避けようとさも自由があるかのように「複雑性」を強調する態度であ
    る。これも、結局のところ「環境」という説明によって還元主義を避けようとするのと同じであるため、
    人間に自由がないことは変わらない。どのみち決定論を避けることは不可能である。
    最後の批判は、科学研究の限界を強調する謙虚な科学的態度に対するものである。唯物論者
    は全ての現象が科学で説明されるわけでないと口では言っているが、科学はその特徴上すべてを
    科学によって解明できるとする原理が前提に存在する。やはり先に上げた 2 つの問題と同じように、
    どのみち人間に自由・超越性・自律性が備わっているという仮説を打ち消すことに代わりはないこ
    ととなる。
    2.2 コント=スポンヴィルの視点
    以上のようなフェリーの主張に対して、コント=スポヴィルは「絶対的に自由な主体、言い方を変
    えれば未決定な主体は、これまた存在しない。超越的なものも、超越論的なものもないのだ」と言
    い切る(p.14)。彼自身が言及しているように、絶対的に自由な主体は存在するか否かという問こ
    そが、フェリーとコント=スポンヴィルの決定的かつ極めて重要な対立点であるといえよう
    コント=スポンヴィルによれば、主体とは脳が自らに命令を発し、そのことを脳自身が自覚してい
    ることを意味する。フェリーは自律性や自由が存在することをもって主体と考えていたことから考え
    れば――当然であるかもしれないが――コント=スポンヴィルの考えは極めて脳科学的、つまり唯
    物論的説明に基づいている。
    さらに、彼は正義という概念について言及し、正義など最初から存在しておらず、仮に正義が存
    在していても、それ自体を絶対的に確信することなどできないと主張する。ここで注目すべきは、フ
    ェリーが唯物論を批判しながらもいくらかの魅力がある――いくらかの価値がある――としたのと
    同様、コント=スポンヴィルも正義について考察すること自体に価値がないわけではないとする。
    なぜなら、「正義」という概念を尊重しようとする人間の行為によって価値が生まれるのである。彼
    の言葉をかりるなら「価値が欲望を起こさせるのではない。欲望こそが価値を生む」(p.24)のであ
    る。
    第 3 ...

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