金子光晴の「くらげの唄」を読んで
この詩を読んだとき、どことない哀愁にも似た脱力感を感じた。本編に登場するくらげは自分のことを確認するように、何回も定義している。己が何者なのかわからず、ただただ波に身を任せている。もしかしたら「自分が何者なのか」ということは、くらげ自体さして重要だと思っていないのかもしれない。「元の自分はこんな姿ではなかったこと」、そして「波にゆられ疲れ果ててしまったこと」のみを自覚し存在している姿は私にはなんとも悲しげに映った。
私が最も興味を持ったのは
心なんてきたならしいものは
あるもんかい。いまごろまで。
はらわたもろとも
なみがさらつていつた。
の部分だ。心は...