まず、私たちが評価と聞いて思い浮かぶものは、やはり「通知表」・「テスト」ではないだろうか。
ここで、学校でテストを行ったとしよう。私たちは、点数をとるためだけに必死に勉強し、多くのものを覚え、それを頭に詰め込み、テストに臨んでいた。しかし、そのときの得点はどんな性質の数値であろうか。まず、0点を取ったからといってそれが必ずしも、テストで測定しようとしている内容についてまったく理解していないということにはならないだろう。そして、1問1問には配点というものがあるが、ある問いの1点1点の違いはそれに見合った理解の程度の違いを反映するものでもないだろう。また、配点を固定して考えれば、得点の大小は順序の違いを示すことになる。しかし、その得点が確たる根拠を持っているとは言いがたい。したがって、テストの点は順序尺度による測定の結果である。
通知表については、小学校のころは、「よくできました」・「ふつう」・「がんばりましょう」の3段階、中学校・高校のころは「5」・「4」・「3」・「2」・「1」の5段階、というような評価を受けていた記憶があるが、同様に、通知表の数値・記号・語句もこのテスト結果に基づいて決定されるものであれば、順序尺度による測定結果ということになる。
そうやって考えると、私たちが受けてきた「評価」という活動は、実は単に測定の一種にすぎないことがわかる。
では、「評価」は私たちの何を測定してきたのだろうか。私は、教師の定める目標を集団という枠組みの中でどれだけ理解し、その目標に近づけたかを測定していたように思う。教師がここを解ってほしいと思う部分がテストという形で出題されるため、必死になってそこを暗記し、テストで点数をとるように努めていた。そして、集団内での個人点数の位置づけから「5」・「4」・「3」・「2」・「1」の評価がつけられていたのではないだろうか。
まず、私たちが評価と聞いて思い浮かぶものは、やはり「通知表」・「テスト」ではないだろうか。
ここで、学校でテストを行ったとしよう。私たちは、点数をとるためだけに必死に勉強し、多くのものを覚え、それを頭に詰め込み、テストに臨んでいた。しかし、そのときの得点はどんな性質の数値であろうか。まず、0点を取ったからといってそれが必ずしも、テストで測定しようとしている内容についてまったく理解していないということにはならないだろう。そして、1問1問には配点というものがあるが、ある問いの1点1点の違いはそれに見合った理解の程度の違いを反映するものでもないだろう。また、配点を固定して考えれば、得点の大小は順序の違いを示すことになる。しかし、その得点が確たる根拠を持っているとは言いがたい。したがって、テストの点は順序尺度による測定の結果である。
通知表については、小学校のころは、「よくできました」・「ふつう」・「がんばりましょう」の3段階、中学校・高校のころは「5」・「4」・「3」・「2」・「1」の5段階、というような評価を受けていた記憶があるが、同様に、通知表の数値・記号・語句もこのテスト結果に基づ...