今では数多くの研究所が書かれている、明治を代表する女流作家の樋口一葉。正式な教育を受けることができなかった一葉だが、どのようにして文学的に評価の高い作品を書き上げたのか。
樋口一葉、本名奈津(通称夏子)は明治5年5月2日に士族の娘として生まれる。学校には5年8カ月ほど通い、青海小学校高等科第4級を首席で卒業するも、母たきの意向により、3級には進まず退学した。一葉は「死ぬ斗悲しかりしかど学校は止めになりけり」と大変悔んだのである。青海小学校卒業後、父則義の友人の紹介により、中島歌子が主宰する歌塾萩の舎に入門した。ここで華族や上流階級の娘たちにまざり、和歌の題詠にはじまり、書道や古典文学を学んだのである。
その後、兄泉太郎と則義が死去し、一葉が家督を継ぐも生活が貧窮するさなか、萩の舎の姉弟子田辺花圃が小説家として成功し原稿料を得た。このことに刺激された一葉は、のちに小説家になり原稿料で生計をたてることを決意し、東京朝日新聞の小説記者・半井桃水を訪ね小説の指導を依頼した。このとき桃水に異性の想いを抱いたことが、一葉の日記に記され、当初から親密な交際が始まったのである。
こうして桃水の影...