文化社会学I
社会学部社会学科3回生
c088003小西 竜幹
「海辺のカフカ」
この物語は、15歳の家出少年である田村カフカくんと、知的障害の老人ナカタさんの物語が並行して書かれていく。
田村カフカくんは、幼い頃に両親が離婚しているようで、父親とふたりで暮らしていた。父親は小説中には、はっきりとは登場しないがどうも育児、教育ということに関して半ば意識的に積極的に放棄しているような印象を持たせることを田村カフカくんは語るように感じる。田村カフカくんは、この父親を殺したいほど憎んでいる。そして家出を決意するのだ。これは憎んでいる反面といえるだろう。田村カフカくんの物語のパートは家出して以降の、この少年の遍歴を辿る。一方、知的障害の老人ナカタさんのパートは、奇妙に童話的にマンガ的に進んでいく。ナカタさんは戦時中下で小学生であったときに、疎開していた先で奇妙な出来事に巻き込まれ、読み書きの能力を初め、ほとんどすべての知的能力を失ってしまう。長い間、家具職人として働いていたが、年老いた今は、年金生活をする傍ら、ささやかな収入を、家出した猫の捜索のアルバイトから得ている。ナカタさんは読み書きの能力をはじめ、ほとんどすべての知的能力を失ったことの代わりというように猫と話しをする能力を得たのだ。猫と会話し
ながら、家出した猫を探す猫探偵という、何というか実に童話的なナカタさんのパートは、しかし、ある出来事を境に急激に展開していく。旅の仲間としてトラック運転手の青年星野くんを得たナカタさんは、誰かに命じられているように家出した田村カフカくんを追う形で旅を始める。もちろん、それが旅の目的であることはナカタさんにも、星野くんにも判っていない。
田村カフカくんは四国にまで行き、旧家を改造した私立図書館で暮らし始める。そこには美しい初老の女性館長佐伯さんと美青年である大島さんがいて、田村カフカくんを庇護する。大島さんは特に田村カフカくんの全面的な教師的ででもあるように田村カフカくんを教導していく。教導? ぼくにはこの大島さんの行為、好意は教師的なものであると思えるし、また教導しているようにしか見えないのだ。図書館で静かに暮らし、また時に山小屋で孤独の内に暮らす少年は、そこで佐伯さんの昔の恋人を描いた絵『海辺のカフカ』を観る。佐伯さんの昔の恋人に同化したかのような田村カフカくんは初老の女性館長佐伯さんに15歳の恋人の姿を見るようにな。
このようにして物語は四国の私立図書館で静かに沸騰しはじめる。そして、みんながからまりあった頃、ようやく田村カフカくんに追いついたナカタさんと青年星野くんは、神話的な寓話的な方法で、この物語の全体にケリを付けるのだ。ある意味、この小説、この物語の本流は田村カフカくんの成長記になってい
る。如何に彼は悩んだか、如何に彼はその苦悩と戦ったのか、彼の苦悩とは一体何か、という具合に。一方、ナカタさんの物語は、メタ・フィクシヨン的だ。田村カフカくんたちの物語自体にケリをつけるためだけにナカタさんたちは進んでいくように見える。無論、ナカタさんたちのパートにも物語はある。しかし、こちらの物語は田村カフカくんたちの物語と重なりあったもうひとつの現実というよりは、世界を静かに廻し管理する人の物語という色彩を帯びている。だから、ナカタさんの物語はどこか悲しい。まるで道化のような悲しみと言えば妥当なのかな。もちろん、それは感じ方に過ぎないわけで、悲しいという感情を持ち出す必要はないのだけど。ある意味、ナカタさんと青年星野くんは、ドン・キ・ホーテとサンチョ・パンサと言った方がまだ正確かも知れない。
田村カフカくんたちの物語は、多分、『スプートニクの恋人』で示された絶望的に孤独な状況から展開した地点にあるのではないかと思える。『スプートニクの恋人』では、人々はまるで、それぞれが孤独に乗っている衛星の観測窓から互いの衛星を見ていて、そういう関係の中で他者と生きるのだと書かれて
いたように思ったのだが、実は、もっと濃密な関係、複雑な関係としての他者が人間には予めある、あるいはそういう関係にならざるを得ない場合もあるのではないかと、この物語で展開している感じがするのだ。例えば、田村カフカくんの父親に対する嫌悪や、佐伯さんの昔の死んだ恋人との関係や、ナカタさ
んを助ける星野青年とか。そういう様々な関係性の編み目。その編み目は、むしろ孤独以前の、何というか身体にからみつくものを示すのではないか。そうして、それらすべての関係性に、予め、関係性も含めたほとんどすべてを空っぽにされているナカタさんがケリを付けるわけだ。
田村カフカくんが山小屋でひとりで暮らす場面は『スプートニクの恋人』で書かれていた次の部分に照応するように思える。「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の隠されていた力を知るのだ」「そういうのってすてきだと思わない?」と彼女はぼくに言った。「毎日山の頂上に立って、ぐるっと360度まわりを見まわして、どこの山からも黒い煙立っていないことを確かめる。一日の仕事は、ただそれだけ。あとは好きなだけ本を読み、小説を書く。夜になると大きな毛だらけの熊が小屋のまわりをうろうろと徘徊する。それこそがまさにわたしの求めている人生なのよ。それに比べたら大学の文芸家なんてキュウリのへたみたいなものよ」「問題は、誰しもいつかは山から下りて来なくちゃならないことだ」とぼくは意見を述べた。」
山小屋で暮らし、そうして下山し、また山小屋に行き、更に森の奥に行き、そうして田村カフカくんは帰還するわけだが、本当はここから『海辺のカフカ』の物語は始まるのではないだろうか。確かに、この小説では、『スプートニクの恋人』の孤独から少し抜け出た感覚があった。が、状況は何も変わっていない。相変わらず人間はとても孤独だし、それに暴力の中に生きている。でも、そういう中にあっても、少し見方を変えれば、今まで見えなかった関係が見えてくるのではないかという感じを濃厚に漂わせているのが、この『海辺のカフカ』なのだと思う。その関係を見たがために、見えてしまったために、より孤独になったとしても、やはりそれは見えた方が良いし、見なければいけないものなのだから。問題は、そういう状況の中でどのように生きていくかということだ。人は時に山小屋に籠もるべきだが、しかし、その山小屋からいつかは下りてこないとならない。下りた後に様々な関係の波が押し寄せてくる。それは自分では絶対にコントロール出来ないし、田村カフカくんのように誰かが庇護してくれるわけでもない状況で生きていくしかないのだ。孤独は深まったのだろうか、それとも薄れたのだろうか。私はカフカ君はそういった感情を常に抱きながら生きてきたのだと感じた。それは社会的にみればとても不安定なのではないだろうか。