「偏見・差別・人権」を問い直す 2010年5月5日 京都大学学術出版会 自然科学的知見も、それをビジブルに提示してくれる映像も、あくまで「環境破壊」や「環境汚染」という現象を表すテクニカル・タームにすぎない。現象は「環境問題」が問題たるゆえんを語ってはいないのである。
そもそも「問題」は、誰かがある状況を「問題だ」と訴えてはじめて認識される。「環境問題」の問題たるゆえんを考えることとは、つまり、その誰かについて考えることである。そこには必ず、具体的な生を営む誰かが平穏な日常を打ち破って訴えを声にせざるを得なかった状況が存在する。この場合、その人にとって「環境問題」は、自然科学的知見や映像によって認識されるものではなく、自らの状況そのものである。それは決して、ビジブルではないし、わかりやすくもない。だが本稿の主張を先取りすれば、「環境問題」における人権の所在こそは、こうした個別具体性そのものにほかならない。
こう考えると、「環境問題」の渦中に置かれた人びととそうでない人びとの認識には、深い溝がある。
〈私〉という、それ自体としてかけがえのない存在は、それぞれ独自の来歴を持ち、独自のパース...