藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ(安和の変)、政治的地位を確立した。藤原北家は、摂政、関白を独占したため、摂関家と呼ばれるようになった。10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
摂関政治おいては、摂関が天皇をないがしろにして専制をふるったかのようなイメージが作られたこともあったが、実際に天皇の政務を代行できたのは、天皇幼少時の摂政だけであり、幼少の天皇の時期は少なかった。むしろ成人の天応の政務を、協調的に補佐していた時期が大部分であった。
摂関は天皇をないがしろにしたわけではないが、権勢を振るったのは事実である。
摂関政治から見る中世日本
藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ(安和の変)、政治的地位を確立した。藤原北家は、摂政、関白を独占したため、摂関家と呼ばれるようになった。10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
摂関政治おいては、摂関が天皇をないがしろにして専制をふるったかのようなイメージが作られたこともあったが、実際に天皇の政務を代行できたのは、天皇幼少時の摂政だけであり、幼少の天...