『日本書紀』記述から、有間皇子の変についてみてみたい。ことのきっかけは斉明天皇が牟髏の湯に行幸に出、その留守官を任された蘇我赤兄の讒言による。赤兄は皇子に大きな倉を建て民衆の財産を集めた。莫大な費用を使い長い水路を造った。船で石を運び丘を造った。という三点を天皇の失政として皇子に語った。すると皇子は赤兄が自分に味方してくれると思い、我が人生で始めて兵を用いるときがきた。と答えている。皇子はこの時点で謀反を決意したことになる。少し判断が早過ぎないだろうか。翌々日に、赤兄の家を訪ね楼で話合いをするのであるが、決意表明はその時でもよかったはずである。十九歳だったとはいえ、聡明であったと評される皇子にしては安直すぎるようである。そしてその夜に赤兄に裏切られ、自邸で寝ているところを捕らえられ、行幸先の牟髏の湯に送られる。そこで、中大兄皇子の問いに対し皇子は、天と赤兄だけが知っている。自分は何も知らない。と答えている。中大兄皇子は皇子を送り返すが、途中丹比小沢連国襲という人物に皇子を殺害させてしまう。その他にも処分された人々がいたが、赤兄に対する処罰は記載されていない。おそらく無罪とされたのであろ...