【早稲田大学】弁証法神学の展開と帰結

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    資料紹介

    弁証法神学は宗教史学派などの聖書に対する歴史的・批判的方法での解釈を批判するもので、K.バルト(1886‐1968)を中心に第一次世界大戦後に興隆した。しかしながら宗教史学派のハルナックの学問業績に見られる、キリスト教の聖書研究・釈義にいては歴史的・批判的研究の(相対的)妥当性は承認されている。ただし聖書を歴史的に調べるだけで理解することは、バルトらによって、批判されたわけである。
     ではその弁証法神学がどのように生まれ展開していったのか、バルトを中心に見ていく。1870年以来、つまりドイツ帝国成立のあと、無気力と楽天主義がキリスト教を支配していた。すなわち近代のキリスト教は神の超越性を人間に引き寄せて解釈していた。1918年11月、第一次世界大戦が終わると、ヘーゲル的な宗教理解を批判したキルケゴールの考えが脚光を浴び、キルケゴールルネサンスが起こった。これをきっかけに弁証法神学がでてくる。問題はその解釈のちがいによりバルト派、ブルトマン派に分かれたことであった。95人の戦争に荷担した神学者たちの存在を目の当たりにし、当時のキリスト教に疑問を感じたバルトは1919年『ローマ書講解』を出版し、戦争に荷担したハルナックなどドイツの学者を真正面から批判した。「歴史主義」の「ドイツのロマンティックをさかのぼれば、プラトンに行き着く」といった理解はキリスト教には関係ない。バルトはキリスト教の理解は「今ここで」が大事であり、神の声を聞くのが大事である。そしてまず、聖書が何を言っているのかが大事であると言っている。また歴史は神の声を聞き理解するために、補助的に使うのが大事であるとした。
     このようにバルトは、ハルナックなどが歴史さえ見れば聖書を理解できると考えていることを批判したのである。これがバルトの業績の1つの「歴史主義心理主義批判」である。
     2つ目の業績としては「スコラ的方法の肯定」が挙げられる。

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     弁証法神学は宗教史学派などの聖書に対する歴史的・批判的方法での解釈を批判するもので、K.バルト(1886‐1968)を中心に第一次世界大戦後に興隆した。しかしながら宗教史学派のハルナックの学問業績に見られる、キリスト教の聖書研究・釈義にいては歴史的・批判的研究の(相対的)妥当性は承認されている。ただし聖書を歴史的に調べるだけで理解することは、バルトらによって、批判されたわけである。
     ではその弁証法神学がどのように生まれ展開していったのか、バルトを中心に見ていく。1870年以来、つまりドイツ帝国成立のあと、無気力と楽天主義がキリスト教を支配していた。すなわち近代のキリスト教は神の超越性を人間に引き寄せて解釈していた。1918年11月、第一次世界大戦が終わると、ヘーゲル的な宗教理解を批判したキルケゴールの考えが脚光を浴び、キルケゴールルネサンスが起こった。これをきっかけに弁証法神学がでてくる。問題はその解釈のちがいによりバルト派、ブルトマン派に分かれたことであった。95人の戦争に荷担した神学者たちの存在を目の当たりにし、当時のキリスト教に疑問を感じたバルトは1919年『ローマ書講解』を...

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