授業を聴講して生命をめぐる思考と行動については、いろいろな見解があるという事が分かりました。しかし何故、人は生命について解こうとするのでしょうか。
生命とは一番私たちと密接でありながら、遠い存在でもあります。考えれば考える程に分からなくなるような生命だからこそ、人々は自分たちに解ける形で解こうとしたのだと思います。そんな思考の流れとして神話的思考というものはとても理解しやすいものであります。生命という存在に”神”を見いだす。一見するととても遠くへ生命をおいているようですが、信仰という文化の元においては、身近なもので生命を解こうとしている事が分かります。神話においては目に見えないものを目に見えるものへと置き換える行為が頻繁に行われています。中でも面白い事はトーテムポールやワタリガラスといった媒体・シンボルが登場する事です。彼らの生活サイクルの中に生命や神という存在が組み込まれているのです。それはワタリガラスの死を生の糧にする習性の中から、生死の諸相を超えたいのちの根源というべき魂の世界を見てとった事からも感じられます。彼らは問題の答えをすぐそばに・自分たちが見る事の出来る物へと置き換えました。彼らは食物である動物が、人間に食べられた後にまた生まれ変わってくるにはどうしたらいいかと考えた時に、ワタリガラスを創造的存在としました。私たちはこのサイクルを食物連鎖という現象として捉えますが、彼らは自然を形で認識しているのです。
次に、神話的思考ときたら宗教的思考も考えなくてはいけません。先生が授業でおっしゃられたように両者の違いは「信仰」と「認識」ですが、確かに信仰において神は信じる以前に”存在”しているというのは宗教との大きな違いです。宗教においてのシンボルは神そのものであり、実体がないものです。
何故、生命について解こうとするのか
授業を聴講して生命をめぐる思考と行動については、いろいろな見解があるという事が分かりました。しかし何故、人は生命について解こうとするのでしょうか。
生命とは一番私たちと密接でありながら、遠い存在でもあります。考えれば考える程に分からなくなるような生命だからこそ、人々は自分たちに解ける形で解こうとしたのだと思います。そんな思考の流れとして神話的思考というものはとても理解しやすいものであります。生命という存在に”神”を見いだす。一見するととても遠くへ生命をおいているようですが、信仰という文化の元においては、身近なもので生命を解こうとしている事が分かります。神話においては目に見えないものを目に見えるものへと置き換える行為が頻繁に行われています。中でも面白い事はトーテムポールやワタリガラスといった媒体・シンボルが登場する事です。彼らの生活サイクルの中に生命や神という存在が組み込まれているのです。それはワタリガラスの死を生の糧にする習性の中から、生死の諸相を超えたいのちの根源というべき魂の世界を見てとった事からも感じられます。彼らは問題の答えをすぐそばに・...