ヤルタ体制とアジアの冷戦
第二次世界大戦中、アメリカとソ連はドイツ、日本を倒すという共通し、そして他に優先する目標のため、「戦時協調」を維持していた。しかし、第二次世界大戦も終わりに近づくと両国の戦後の秩序維持の構想について意見の食い違いが表面化し、不協和音が目立つようになっていった。アメリカが民族自決に基礎を置いた戦後処理と国際機構の設立による平和・秩序維持を目指したのに対し、一方のソ連は戦力範囲の承認に秩序維持の基礎を置いた。このような意見の食い違いを反映し、1945年2月に東欧問題を焦点に開かれたヤルタ会談ではソ連の東欧支配が実質的に承認された。これは対日参戦になおソ連の力を必要とし、また戦時協調を戦後の秩序維持の前提と考えていたアメリカの譲歩・妥協によるものであった。これによりソ連は東欧にその勢力を拡大したが、一方アジア・太平洋地域においてはその行動は抑制的であり、朝鮮線半島における降伏区分を北緯38度線に設定し、また日本に上陸し占領することも可能であったのにそうしなかったことなどに現れている。一方、アジア・太平洋地域での優位を確立したのはアメリカであった。日本においては、...