50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践のあり方を具体的に論述すること。
【戦後の同和教育史】戦後の同和教育施策は、同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学の取り組みに始まった。オールロマンス事件当時、京都市では同和地区の児童生徒の長欠・不就学率が市平均の10倍という高さだった。そのため、部落解放委員会京都府連合会はオールロマンス差別事件糾弾要綱で、同和地区児童生徒の「不就学児童を無くする対策を即時に立てること」を同和教育行政における最重要課題と位置づけた。これを受けて京都市は「今後の同和施策運営要綱」を策定し、これにもとづいて戦後初めての同和教育費200万円が52年度予算として計上された。これはその後も年々増額されるようになる。 60年代に入ると、京都市の同和教育は長欠・不就学の取り組みから学力・進路保障への取り組みに変わっていった。これは、これまで長欠・不就学の問題が先立ち直視されてこなかったが、同和地区生徒の進学率は京都市平均より約40ポイント低く、その低学力の実態が浮き彫りにされたためである。そこで同和地区生徒の高校進...
リポート学習の留意点に沿って、学校の部落問題における取組みについて調べ、そのあり方を述べました。