日本は、1854年の日米和親条約・1855年の日露和親条約などの締結で、欧米各国と国交関係を持つことによって国際社会へ入ることになりました。そして、明治国家は、天皇を主権者とする国家として、「宇内の公法」(「万国公法」)を遵守することを宣言し、それを外国政府に承認されることによって出発しました。この明治国家が入ることになった「万国公法」の世界とは、主権国家体系としての国際法体制を指します。こうして外交と内政において最高の権威を与えられた主権国家間の統合を図るための規範が、国際法であり、キリスト教文明を基盤とした規範体系でした。
1854年の日米和親条約では、日本に不利な最恵国待遇の供与を強制され、58年の日米修好通商条約では、領事裁判権を認めさせられて、その後の不平等条約の基本となりました。このような不平等条約を継承して出発したばかりの明治日本には、その国力次第で欧米の植民地や保護国にならない保障はありませんでした。その危険から逃れるための唯一の最も安全な方法は主権を持った独立国家として国際的に認知されることであり、そのために条約改正が必須の国家的政治課題となったのです。
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