ミステリの文学性とは

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    資料紹介

    近代文学といえば人間の在り方を求め描いたものというイメージが強いのだが、そこに存在する自我の確立や人間性の追究は、人間の葛藤や極限の心理状況を描く推理小説に通じはしないだろうか。ミステリは文学であって欲しい。文学であって欲しいがどうにも毛の色が違う気もする。そこで、今回考えてみたい事は「ミステリは果して文学のうちに存在する事が出来るのか」。この事である。教授はうんざりするかもしれないが、私の与太に少し付き合っていただきたい。
    「文学」という定義は人それぞれかもしれないが、手っ取り早く辞書を引いた結果、「人生いかに生くべきか」という主テーマに基づき他者をあらゆる意味で感動させるもの、ということだった。小説はその一形態にある。小説、というカテゴリで見て文学に当てはまるのならば、ミステリは紛れも無い小説であり、漏れる事無く文学である事になる。演繹に考えればそうなのだが、どうにも腑に落ちないのだ。悩む事でもないのかもしれない。ミステリは文学なのだと納得すればいい事なのかもしれない。頭では解っていてもどうにも苛々する問題だ。ミステリと文学の溝は何か。私には比較すべき資料が圧倒的に不足しているのだが、今持つ情報で考えてみる。

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    文学史
    戦後・近代の文学史ということで悩んではみたが、私は所謂『文学作品』というものに触れた事がない。学校という機関の内に含まれるカリキュラムで作品の解説を受けた事はあるが、私自信が著作を手に取り、ページを捲り、感情移入し、あるいは満足し、あるいは失望し、本を閉じるという事をしていない。私にとって儀式にも似た行為になるのだが、それをせずに作品をひいては文学を騙るのはおこがましい行為に思えた。
    ところで、余計なカミングアウトになるが、私はミステリが好きである。本を読むといえば必ず推理モノ、読んだ本の7割強はミステリという位好きなのだ。ただ単に物語の終末で何も無い所に放り出される事が嫌いなだけかもしれない。どこかに落ちついて確実に彼岸から此岸に戻ってくることが出来る作品でないと安心を得られないのだろう。読書量の少ない中で読んでいるものがミステリ中心になってしまっている私は、なんとか課題にこの趣向を結び付けたい。という事で、形而上的に文学を考えた。
    近代文学といえば人間の在り方を求め描いたものというイメージが強いのだが、そこに存在する自我の確立や人間性の追究は、人間の葛藤や極限の心理状況を描...

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