守護所戦国城下町の特徴

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    守護所戦国城下町の特徴
    守護所とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。
    鎌倉時代初期においては、守護の職務は大犯三箇条に限定され、朝廷が任命した国司の政庁がある国衙とは別の場所に置かれるのが一般的であった。また、守護は世襲ではなく交替制であったため、守護の交代とともに守護所も替わるのが一般的であった。
    ところが、鎌倉時代後期以後、守護の職務が治安維持から裁判にまで広がってくるようになると、守護の権威が国司を圧倒するようになり、南北朝時代以後には守護が一国の支配権を得るようになった。また、守護の世襲化が進行したこともあり、守護所も固定される傾向が強まった。
    世襲化した守護の守護所としては当該武家の本拠地、あるいはかつての国衙所在地である府中、その他交通・商業の要所などに置かれるケースが多く見られた。守護所の固定化によって守護の居館を中心に重臣の居館が配置され、その周辺に市場や寺社などが集まるようになり、地方都市としての役割を果たすようになった。
    戦国時代に入ると、下剋上による守護大名の没落に伴う新興勢力、あるいは逆に領内支配の確立して守護領国制を脱却した旧守護大名による戦国大名が新たな支配者として浮上するが、守護所の所在地がそのまま本拠地として用いられたケースもあった。
    城下町とは、日本において、領主の居城を中心に成立した都市。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心としたケースもあるが、それらも含めて城下町と呼ぶ。
    成立は戦国時代に始まる。城の防衛施設としての機能と、行政都市・商業都市としての機能を持つ。近世城下町発展の礎を築いたのは織田信長で、兵農分離を意図し武士を城下に集住させるとともに、市街に楽市楽座を設けて商工業の発達を活発にした[1]。さらにそれを発展させたのが豊臣秀吉で、豊臣政権の政治経済の中心となった大坂城下は富の集積地となって殷賑を極め、江戸時代に入っても商業の中心地であり続け天下の台所と言われた。
    南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険な山頂や丘陵などに山城を築き、麓の居館(根小屋)の周辺に家子郎党の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居屋敷を巡らした屋形町であった。なお守護町のうち戦国城下町に進展しえたのは、今川氏の駿河府中(静岡市)、武田氏の甲斐府中(甲府市)、大内氏の周防山口(山口市)、大友氏の豊後府内(大分市)、島津氏の薩摩鹿児島(鹿児島市)などがある。このように守護の戦国大名化がみられる一方で、守護代・国人層のなかから成長した戦国大名は、前代の山城から比較的低い平山城へ移って城郭の規模を拡大し、専門武士団を常置するとともに、領国経営・軍事力強化のために近隣の市町を吸収し、遍歴の巡回職人を御用職人集団に編成するなど、物資調達態勢の整備に努めたから、16世紀後半には漸次城郭の周辺に町場が形成された。とはいえ、戦国期の城下町は士庶の居住区分も明確でなく、商業も市町による定期市の段階にあり、家臣団も支城を単位とする軍事編成がとられており、本城下への集住は限定され、なお農村に居住する者が多かった。近世城下町の先駆をなすのは1576年(天正4)織田信長の近江(おうみ)安土(あづち)であって、地子(じし)免除に加え、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。
    世界各国の大半の城郭都市は、城壁に囲まれた中に城と街が存在する。それに対し、日本では堺や寺内町のような堀と土塁で囲まれた都市や町は早くから存在していたものの、初期の城下町では領主の居城のみが堀と城壁に囲まれ、街自体は城壁には囲まれていなかった。しかし、日本においても城下町が発展すると、経済的および政治的価値が上昇し、それにともない城下町を戦乱から防護する必要性が生じた。そのため町を堀と塁壁で囲む総構えの構築が増加してゆき、次第に城郭都市化していく傾向をみせた。
    江戸時代になると、防衛都市としての色合いが薄くなり、幕府や藩による政治・経済の中心としての色が濃くなった。江戸時代を通じて戦争がなかったことと、大半の藩主家が領主の交代を経験しており、(石高は別として)土地自体への執着が薄かったことが理由として挙げられる。また、城砦としての防衛能力を重視した場所は必ずしも交通の便が良いところではなく、交易都市の色彩を強めるにつれ城が放棄され陣屋などに行政中心が移ったケースも多い。
    構造:付近を通る幹線道路のコースを、城下に通じるように付け替えることにより往来が城下を通り、商工業を活性化させる効果を狙っている。ただし、幹線道路は、地形上の有利不利を問わず、権力者の威光を示すために、城の裏に当たる搦手側は通さず、表に当たる大手側を通した。
    城下町には、都市防衛の工夫が随所に見られる。敵の侵攻を妨ぐために、川など地形を巧みに利用するとともに、堀を掘り、土塁や石垣を築き、要所には時として桝形門のような強固な城門を設けることもあった。城下に入ると幹線道路の両脇に家屋を隙間なく配置させることで城を見え難くして、道を鍵形に曲げたり袋小路を設けるなどすることで、城への到達距離を延長した。また、町割ごとに柵や木戸を設けて、夜には門を閉めて門番を立たせるなど、不審者の侵入を阻んでいた。堀は運河としても使われ物流にも大きな役割を果たしていた。
    町割りは城を中心に、侍町、町人、寺町などが配された。侍町とは、家臣の屋敷いわゆる侍屋敷が建ち並ぶ町であり、身分の高い家臣ほど、城に近い位置に屋敷を持った。現在に残る地名で、山下(さんげ)・番町・弓之町・鉄砲町・上屋敷町・下屋敷町などがこれに当たる。大藩の場合は家臣が多く、足軽など軽輩の者は、町人地の外側に配されることがあった。
    町人地は、武家町の外側に配された商人や職人の町である。付近の村落を城下に移住させたり、商人や職人を職種ごとに分けて移住させた。現在に残る地名では、呉服町・油屋町・大工町・鍛冶町・紺屋町などがこれに当たる。町人地は武家町よりも面積が狭く、また、防衛上の観点から街道に隙間なく割り当てられた。このため、家屋は間口が狭く奥行きが長い、いわゆる「鰻の寝床」であり、二階建てとなっていた。ただし、二階を生活の場とすると武士を見下ろすことになるので、物置として活用された。
    さらに、寺町は、城下町の外郭に配されて広い寺院が建ち並び、都市防衛強化の一翼を担った。
    兵農分離を伴う本格的な城下町の設営が行われたのは、豊臣政権以後である。とくに徳川政権確立後の諸大名の配置転換に伴って、領主権力による城下町の建設は17世紀前半(元和~寛永期)に全国的規模で行われた。元和の一国一城令(1615)によって支城の多くは破却されたが、新しい領国経営の拠点として、城地の選定は軍事的条件よりも交通・経済面が重視されたものの、多くは山丘と河川を防御的に利用した平山城が構築され、市街地の造成が行われた。それらは土地の強制収用、河道の付け替え、街道の城下への繰り入れなど、自然的景観の大改造を伴うものであった。城下の大半は武家地で占められたが、軍事上の配慮から、上級家臣の屋敷地を城の郭内あるいは近くに固め、その周囲に中・下級家臣を配し、足軽などの組屋敷や寺社地は町屋を隔てた場末や城下周辺部に配置するのが一般であった。
    なお兵農分離による全家臣団の城下への集住は、領主・武士層の軍事的・日常的な必需品の生産と流通を担当とする商工業者の存在を必然とした。地子免除など領主の種々の優遇策によって領外から誘致された商工業者に加え、領内の在町在村の商工業者も城下に強制移住させ、都市と農村との社会分業=商農分離が行われた。初期の町割にあたっては、業種別に棟梁とか商人頭といった統率者を通じて屋敷地が割り当てられ、同業同職集居を特色とした。商人町としての石町(米屋)、塩町、肴(魚)町、青物町(八百屋)、紙屋町、職人町としての鍛冶町、大工町、紺屋町などの町名が旧城下町の都市に多いのは、その名残である。とくに職人町の場合、町役免除の特権と引き換えに、その生産を優先的に領主の需要に振り向けることが義務づけられていた。また商人町の場合も、商業助成策として特定町に専売特権(町座)が付与された例が多い。
    城下町の本町人とは、このような成立期に屋敷割を受けた者たちであり、これらの町人が生み出す新たな需要に応じるための町人がこれに追加されて城下町の発達がみられた。すなわち、このような領国経営の核とする都市計画も、前期における城下町への流入人口の増加による市域の拡大とともに、同業集居の原則は崩れ、平和の長期化による軍需の減退は、手工業生産の内容を変え、特定町の専売特権も消滅していった。そして初期的な門閥町人による少数支配にかわって、新興の問屋商人を中心とする遠隔地商業組織が17世紀後半から18世紀前半にかけて形成された。もっともひと口に城下町といっても、領主の所領規模の広狭や地理的立地条件によって領域経済に果たしえた経済的機能には格差がある。したがって各城下町の盛衰の時期は一様ではないが、概して元禄期(1688~1704)前後に最盛期を迎えたが、その後、領主経済の窮乏による中央都市商人への依存度の増大、領内外の在郷町の成長などによって、城下町の経済的地位...

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