萩への朝鮮人の流入
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1.萩への朝鮮人の流入
◎文禄慶長の役(1592~1593、1597~1598)と萩焼の起こり
・豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって、連れてこられた朝鮮人陶工たち
←背景には千利休が確立した侘び茶が戦国武将によって流行し、高麗茶碗に着目したことによる
・広島の毛利輝元の要請により、李勺光・李敬兄弟一行が呼び寄せられるが、関が原の合戦での敗戦により防長(防府長門)2国に追いやられ、彼らもともに移り住むこととなる。
・李勺光は「御細工人」となり、食禄5人扶持と銀250目を受け、萩の松本村中ノ倉に藩の御用窯を開窯することを許され(松本窯として呼ばれるようになる)、鼓ガ嶽を燃料の薪山として使うことが藩内で唯一認められた。
→以後この山は唐人山と呼ばれるようになる。
「萩焼」は、後に茶碗戦争といわれた、1592年と1597年の豊臣秀吉による朝鮮出兵に出陣した大名たちが、朝鮮より連れ帰った陶工によって始められたことを起源としています。時は折りしも千利休によって朝鮮由来の高麗茶碗が注目された...