鎌倉仏教の代表として、一遍が起こした時宗がある。伊予の国の有力武士の家に生まれた一遍は、善人・悪人や、信心を問うことなく、すべての人が救われるという念仏の教えを説き、踊念仏によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた。その足跡をたどって編集された絵巻に「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)がある。これは全十二巻の絵巻で、一遍の出生から臨終までが詞書と絵で語られているのだ。一遍の弟子で血縁でもあった聖戒が絵師を連れて、一遍の死から十年後にその遊行の後をたどって製作したのだ。
一遍で有名なことといえば、「踊念仏」である。高校の日本史の資料集でも屋台の上に坊さんが連なり、踊っている絵が紹介されている。また、かつて朝日新聞の日曜版において「名画日本史」という連載があり、そこでも一遍聖絵が取り上げられていた。ここでは「捨聖」としての一遍が取り上げられていたが、今回は一遍聖絵と踊念仏について考えて生きたいと思う。
そもそも踊念仏はどのように始まったのだろうか。一遍たちは、もともと各地を回りながら教えを説き、お札を渡していたにすぎなかった。一遍聖絵に初めて踊念仏が出てくるのは一二七九年の信濃小田切の里においてである。
「公安二年(一二七九年)の秋、一遍とその一行は、京都因幡堂をあとに善光寺参詣のたびに出発した。かれらが、信濃小田切の里にさしかかった時、一遍は里主に念仏歓心をおこないたいと申し入れた。許可を受けた一遍立ちは、館の庭で鉢をたたき、足を踏み鳴らしながら念仏を唱えていたが、それはいつしか輪踊りとなった。(『一遍聖絵』巻四)。念仏房と尼僧を中心として、時宗僧だけでなく、里人たちも一緒に加わって、輪ができあがったのである。縁側で鉢をたたいている一遍の姿が印象的である。初発の段階では、一遍は、踊りの輪のなかにははいらず、念仏のリズムを取るために、鉢をたたいていたのである。
一遍聖絵と踊念仏
鎌倉仏教の代表として、一遍が起こした時宗がある。伊予の国の有力武士の家に生まれた一遍は、善人・悪人や、信心を問うことなく、すべての人が救われるという念仏の教えを説き、踊念仏によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた。その足跡をたどって編集された絵巻に「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)がある。これは全十二巻の絵巻で、一遍の出生から臨終までが詞書と絵で語られているのだ。一遍の弟子で血縁でもあった聖戒が絵師を連れて、一遍の死から十年後にその遊行の後をたどって製作したのだ。
一遍で有名なことといえば、「踊念仏」である。高校の日本史の資料集でも屋台の上に坊さんが連なり、踊っている絵が紹介されている。また、かつて朝日新聞の日曜版において「名画日本史」という連載があり、そこでも一遍聖絵が取り上げられていた。ここでは「捨聖」としての一遍が取り上げられていたが、今回は一遍聖絵と踊念仏について考えて生きたいと思う。
そもそも踊念仏はどのように始まったのだろうか。一遍たちは、もともと各地を回りながら教えを説き、お札を渡していたにすぎなかった。一遍聖絵に初めて踊念仏が出てくる...