遊行というのは各地を巡り歩くことである。遊行聖と言われる者が布教のために歩きまわった。奈良時代や平安時代においては、『僧尼令』によって、僧尼は寺院に定住するように朝廷から決められていた。寺院の外に出るためには許可を受けなければならなかったし、まして僧尼が一般の俗人を訪れて仏法の教えを説けば、俗人もろとも厳重に処罰された。僧尼の果たすべき役割は、一般の個人の救済にあるのではなく、国家全体を守り、特に天皇や貴族を守ることにあった。僧尼はひたすら国家に奉仕すべきものとされたのである。それでも、網の目をくぐるように、民間杜会に布教する僧侶も後を絶たなかった。その代表的な僧侶は、奈良時代の行基(668〜749)であり、平安時代の空也であった。行基は各地を巡り歩いて、池や溝を掘って農民のために尽くし、橋を架け、道を直し、布施屋を作って貧しい人びとに食事を施した。空也も同じように杜会事業に精を出し、一方では念仏を勧めて歩き、常に「南無阿弥陀仏」と唱えていた。
遊行という言葉はしだいに特定の人物を指すようになる。すなわち時衆の指導者である。時衆遊行派ではこれが制度化し、一遍が初代である。他阿弥陀仏を号とする。また時衆当麻派でも指導者のことを遊行と呼んだ。こちらも初代は一遍だが、4代からは同じ人物を遊行としていない。
遊行をしたコースとして『聖絵』からわかることは、北は奥州江刺から、南は九州の大隅の国である。一遍にとっての遊行というのは、念仏を通して1人でも多くの人々を極楽往生させたいと願ってのことだったので、遊行をしたコースは特に目的がなかったかもしれない。しかし、江刺より北に行ってないということはその江刺に目的があったと思われる。江刺と言うのは父通信の墳墓のある場所であった。
遊行というのは各地を巡り歩くことである。遊行聖と言われる者が布教のために歩きまわった。奈良時代や平安時代においては、『僧尼令』によって、僧尼は寺院に定住するように朝廷から決められていた。寺院の外に出るためには許可を受けなければならなかったし、まして僧尼が一般の俗人を訪れて仏法の教えを説けば、俗人もろとも厳重に処罰された。僧尼の果たすべき役割は、一般の個人の救済にあるのではなく、国家全体を守り、特に天皇や貴族を守ることにあった。僧尼はひたすら国家に奉仕すべきものとされたのである。それでも、網の目をくぐるように、民間杜会に布教する僧侶も後を絶たなかった。その代表的な僧侶は、奈良時代の行基(668~749)であり、平安時代の空也であった。行基は各地を巡り歩いて、池や溝を掘って農民のために尽くし、橋を架け、道を直し、布施屋を作って貧しい人びとに食事を施した。空也も同じように杜会事業に精を出し、一方では念仏を勧めて歩き、常に「南無阿弥陀仏」と唱えていた。
遊行という言葉はしだいに特定の人物を指すようになる。すなわち時衆の指導者である。時衆遊行派ではこれが制度化し、一遍が初代である。他阿弥陀仏を号...