夏の風物詩である七夕は、牽牛・織女の七夕ものがたりと、中国伝来の乞巧奠の風習とが習合したものであると言われている。この七夕ものがたりと乞巧奠について概説しながら、現在の日本の七夕に至るまでを述べていく。
この七夕ものがたりの内容は「機織仕事をしていた織女が、牽牛と結婚した途端に、仕事をしなくなってしまった。それに腹を立てた織女の父が彼女に腹を立て、二人を天の川を挟んで引き裂いてしまい、年に一度だけ七月七日の夜に、天の川で会うことを許した」というものである。いろいろな七夕説があると言われているが、最もよく知られる七夕のものがたりの原型であると考えられている。 『荊楚歳時記』の記述によれば「七月七日、牽牛・織女、聚会の夜と為す」とあり(参考文献一七八頁)後漢の時代に成立した物語と言われている。万葉集で天の河などこのものがたりをモチーフにした歌が、歌われていることから、万葉集が歌われ始めた時代にはすでに、このものがたりは日本に伝来していたと考えられる。
持統天皇(六四五〜七〇二)の時代には七月七日にこの七夕ものがたりと日本古来の棚機姫の信仰が融合された、歌を詠む宴が日本ではあったのである。聖武天皇(七〇一〜七五六)の時代には朝廷の儀として相撲も兼ねて行われた。
乞巧奠はこの聖武天皇(七〇一〜七五六)の奈良時代に、日本に伝来された。この儀は宮中で、次のような方法で行われた。まずこの日の夜、銀・銅・鉄などで作った七本の針に綵縷を通し、庭の真ん中に瓜菓を並べた。そこで裁縫の上達を祈願した。この瓜上に張られる蜘蛛が蜜になればなるほど、裁縫が上達すると信じられた。七夕ものがたりとは無関係であった乞巧奠であったが、両星相会の願いにあやかり裁縫の上達も願うようにと同日に行なった。唐の乞巧奠と比較してみると、唐では『荊楚歳時記』の記述によると次のように記述されている。
夏の風物詩である七夕は、牽牛・織女の七夕ものがたりと、中国伝来の乞巧奠の風習とが習合したものであると言われている。この七夕ものがたりと乞巧奠について概説しながら、現在の日本の七夕に至るまでを述べていく。
この七夕ものがたりの内容は「機織仕事をしていた織女が、牽牛と結婚した途端に、仕事をしなくなってしまった。それに腹を立てた織女の父が彼女に腹を立て、二人を天の川を挟んで引き裂いてしまい、年に一度だけ七月七日の夜に、天の川で会うことを許した」というものである。いろいろな七夕説があると言われているが、最もよく知られる七夕のものがたりの原型であると考えられている。 『荊楚歳時記』の記述によれば「七月七日、牽牛・織女、聚会の夜と為す」とあり(参考文献一七八頁)後漢の時代に成立した物語と言われている。万葉集で天の河などこのものがたりをモチーフにした歌が、歌われていることから、万葉集が歌われ始めた時代にはすでに、このものがたりは日本に伝来していたと考えられる。
持統天皇(六四五~七〇二)の時代には七月七日にこの七夕ものがたりと日本古来の棚機姫の信仰が融合された、歌を詠む宴が日本ではあったのである。...