「近代日本における救済制度として、1874(明治7)年に恤救規則が制定されるが、その内容と日本型救貧としての特質を論述しなさい。」
1,恤救規則誕生の背景
江戸時代では国民の8割が農民であり、その生活実態は毎年の天候、収穫量に大きく影響されるものであり、貧困問題もそういった要素を抱えていた。しかし当時の救貧制度は儒学の影響を大きく受けており、儒学者による慈恵救済論は次のような特徴をもっていた。その1つは貧困は個人の責任によるものであるという考え方である。個人の怠惰によって生じた貧困を救うことよりも防貧を重視していた。2つめは家族制度を重視していたことである。血縁、地縁、国主の順で救済の責任をとるというものであった。3つめは村落共同体の救済を重視し、都市貧困層には帰農、開墾を奨励するというものであった。すなわち貧困は個人の責任であり、個人の努力および相互扶助により解決するものであった。こういった考え方のもとではあったが、藩による慈恵政策が行われていた。
やがて日本にも近代国家の幕が開けた。明治維新が起こり、300年続いた徳川幕府が崩壊し、新しい時代が誕生したのである。それによってこれまで...