日本語が乱れているという人は多い。しかも、学識経験者や年配だけでなく、若者たちを含めたかなり多くの人々が、日本語は乱れていると言っている。
日本語が変化していることは、すでに多くの人が論議をしている。たいていの人は批判的に、そしてごく少数の人びとは肯定的に、この変化について論じている。ただ、どのような位置から眺めてみても、とにかく日本語が今すさまじい勢いで変化していることは否定できないだろう。
ところが、乱れを嘆く人が多いのに、それはさっぱり改善されているようには見えない。ということは、その乱れを本気で心配している人が案外少ないということなのではないか。本当に深刻な乱れだと感じていれば、改善のために人びとがもっと真剣に取り組むだろう。乱れているという声だけがただ繰り返されている状況はどこかおかしい。
もちろん、「乱れている」と嘆いているだけでは、何もはじまらない。今、まず必要なことは、実態をよく見て、冷静に将来を考えることだろう。カタカナの氾濫だとか、敬語が正しく使えないと言って若者を非難しているだけでは、事態はよい方向へ向かうはずがない。乱れていると語ることで、乱れに慣れてしまっている状況を少しでも改善するために、現在、日本語がどのような状況にあるのかを見つめてみる必要がある。そのうえで、善し悪しはともかくとして、今や「日本語ができない日本人」が出現し始めているということについて考えていくべきであると考える。
今回読んだこの本は、日本語の現状がどうなっているのかということを、特に高校生のデータを中心として書かれている。その手がかりとして、いわゆる「学力崩壊」という状況の再検討について、そして、より具体的に日本語ができないとはどういうことなのかを述べている。
日本語のできない日本人
日本語が乱れているという人は多い。しかも、学識経験者や年配だけでなく、若者たちを含めたかなり多くの人々が、日本語は乱れていると言っている。
日本語が変化していることは、すでに多くの人が論議をしている。たいていの人は批判的に、そしてごく少数の人びとは肯定的に、この変化について論じている。ただ、どのような位置から眺めてみても、とにかく日本語が今すさまじい勢いで変化していることは否定できないだろう。
ところが、乱れを嘆く人が多いのに、それはさっぱり改善されているようには見えない。ということは、その乱れを本気で心配している人が案外少ないということなのではないか。本当に深刻な乱れだと感じていれば、改善のために人びとがもっと真剣に取り組むだろう。乱れているという声だけがただ繰り返されている状況はどこかおかしい。
もちろん、「乱れている」と嘆いているだけでは、何もはじまらない。今、まず必要なことは、実態をよく見て、冷静に将来を考えることだろう。カタカナの氾濫だとか、敬語が正しく使えないと言って若者を非難しているだけでは、事態はよい方向へ向かうはずがない。乱れていると...