「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人国を鎖して国民をして国中国外に限らす敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」と訳を当てた。
「国を鎖し」「国の内外を問わず外国人と交易することを許さないこと」といったように、ケンペルは「鎖国」の概念を表現したが、はっきりと「鎖国」という言葉を使用してはいない。そもそもそれ以前の日本には「鎖国」という言葉は無く、1800年頃の対外的危機を前にして、「開国」の対概念として初めて語られた言葉なのだ。
これまでこの「鎖国」政策については、西洋に対する日本の遅れの原因や、幕府の独占貿易政策といった不の要素として解釈されてきたが、昨今の研究でこの考えが見直され始めた。鎖国に関する得失が盛んに論ぜられ、「鎖国」概念は大きく変貌している。「鎖国」という言葉の妥当性も議論の対象であり、このようにカギカッコをつけた表記がなされる。
日本は本当に「国を鎖し」ていたのだろうか。そもそも、中世世界には綿密な国際社会は存在しない。
「鎖国」を巡って
「国を鎖す」、つまり「鎖国」。語源は既に広く知られていることだが、長崎通詞・志筑忠雄(1760-1806)の訳書『鎖国論』に拠る。
原書はケンペル(1651-1716)『日本誌』の巻末付録に収められた論文の一つで、志筑はこれに「今の日本人国を鎖して国民をして国中国外に限らす敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」と訳を当てた。
「国を鎖し」「国の内外を問わず外国人と交易することを許さないこと」といったように、ケンペルは「鎖国」の概念を表現したが、はっきりと「鎖国」という言葉を使用してはいない。そもそもそれ以前の日本には「鎖国」という言葉は無く、180...