「『児童の権利に関する条約』制定の背景と意義について述べよ。」
〈条約制定の背景〉
第2次世界大戦後、世界の平和維持を目的として組織された国際連合は、国際連合憲章(国連憲章)を成立させた。この国連憲章第68条に基づいて、人権委員会が設置され、この委員会によって「世界人権宣言」が作成され、1948年12月10日、第3回国際連合総会において満場一致で採択された。前文と30か条から構成されるこの宣言は、人権の無視および軽侮が人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらしたとして、国際社会における人権の普遍的な保障に関してすべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、公布された。
初めて子どもの権利が、国際的に宣言されたのは、第一次世界大戦後である。いつの時代も、戦争や暴力、差別や貧困などは、子どもに犠牲を強いるのだが、この戦争によって、特に戦場化したヨーロッパの子どもたちは悲惨な状況下にあった。この事態に対して、1924年国際連盟において「児童の権利に関するジュネーヴ宣言(ジュネーヴ宣言)」が採択され、子どもの権利に関して、初めて国際的な承認を得ることになった。
子ども固有の宣言として、「ジュネーヴ宣言」を基礎に新たな原則を追加して「児童権利宣言」が、1959年11月24日第14回国連総会において採択された。この「児童権利宣言」は、前文と10か条から構成されている。
この宣言は、子どもの権利にかかわる豊かな内容を含み、重要な課題を提起しているが、その児童観は、未熟な存在であり、権利を自ら行使する能力を持たない、それゆえに保護され教育されなければならない存在というものである。また、国際的宣言は、国際的にその存在が承認された道徳的規範を示してはいるが、条約のもつ、国家間、あるいは国家と国際組織間の文章による法的合意とは異なり、拘束力を持っていない。そこで、「児童権利宣言」20周年を記念して「国際児童年」が定められた1979年に、ポーランドから児童の権利条約起草案が国連の人権委員会に提出された。この草案は、ユダヤ系ポーランド人のヤヌシュ・コルチャックにあると言われている。ポーランドは、第2次世界大戦で同国の子どもたち約200万人がホロコーストなどによって命を失った国で子どもの権利保障に熱心であった。
1979年にポーランドによる起草提案が提出されて以来、さまざまな国情から討論が重ねられ10年の歳月を経て、児童の権利の具体的内容明記、そして拘束力を備えての条約という形をとって国連総会で採択されたのが、1989年11月20日である。そして、20カ国の批准により1990年9月2日より発効することとなった。
「児童の権利に関する条約」は以上のような背景のもとに、条約という強い拘束力を持つ形で誕生したのである。
〈児童の権利に関する条約の内容について〉
1989年11月20日、児童の権利に関する条約(Convention on the Rights of the Child)として、国連総会第44会期で採択された。
採択された条約は、13段におよぶ前文と、3部構成の54条からなる。
ユニセフ関係者によれば、この条約で規定された子どもの権利は、3つのPである。すなわち、「所有あるいは利用に関する権利(provision)」、「保護に関する権利(protection)」、「参加に関する権利(participation)」である。
この条約の最大の特徴は、従来ほとんど重視されてこなかった、参加あるいは能動的権利など、子どもの市民権および政治権にス
「『児童の権利に関する条約』制定の背景と意義について述べよ。」
〈条約制定の背景〉
第2次世界大戦後、世界の平和維持を目的として組織された国際連合は、国際連合憲章(国連憲章)を成立させた。この国連憲章第68条に基づいて、人権委員会が設置され、この委員会によって「世界人権宣言」が作成され、1948年12月10日、第3回国際連合総会において満場一致で採択された。前文と30か条から構成されるこの宣言は、人権の無視および軽侮が人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらしたとして、国際社会における人権の普遍的な保障に関してすべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、公布された。
初めて子どもの権利が、国際的に宣言されたのは、第一次世界大戦後である。いつの時代も、戦争や暴力、差別や貧困などは、子どもに犠牲を強いるのだが、この戦争によって、特に戦場化したヨーロッパの子どもたちは悲惨な状況下にあった。この事態に対して、1924年国際連盟において「児童の権利に関するジュネーヴ宣言(ジュネーヴ宣言)」が採択され、子どもの権利に関して、初めて国際的な承認を得ることになった。
子ども固有の宣...