近代哲学史とシュルレアリスム

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    資料の原本内容

    近代哲学史とシュルレアリスム
    目次

    デカルトの命題と近代
    個人主義的世界観とルネサンス
    破壊と創造 ―ダダからシュルレアリスムへ―


    芸術史を考える上で、その背景となる時代の社会状況や哲学思想との密な関係を把握し、体系的に理解することは重要である。特にダダイズム・シュルレアリスムのような、単なる芸術の一形態として考えるだけでは足りぬ幅広い思想運動においては、その重要性は一層高まるのではないだろうか。
    このレポートでは、西洋芸術史が中世以前の芸術からルネサンスを経て、ダダ・シュルレアリスムへと変遷していったその流れを、当時の社会状況などを参考にしながら、思想的な面も含めて考察していく。己の不明のいたすところ、ダダ・シュルレアリスム芸術に対して全く理解の及ばなかった私であるが、レポートを書き終える頃には少しでもその思想の意味するものに近づければと願う。
    デカルトの命題と近代
    「我思う、故に我有り」
    近代哲学の父デカルトは、1637年、自著『方法序説』においてこの哲学史上最も有名な命題を高らかに謳いあげた。
    当時、教会中心的な体制は崩壊しつつあり、中世ヨーロッパにおいて形成されたキリスト教的精神共同体の解体と共に、各個人は結びつきを失い孤立していく。中世的なコスモス(伝統的な精神秩序に支えられた世界認識の体系)は根本的に破壊され、際限なく広がりゆく宇宙の茫漠たる空間の中、ただひとり投げ出された個人は、何を頼りに生きていったらよいかわからなくなっていた。
    デカルトは、その時代にあって、世界を「自然の光」(jumen naturalie)に照らして認識しようとした。人間が宗教的権威から解放されて自立性を獲得し、事物を理性の順序に従って合法則的に認識するということである。そして彼の命題は、考える主体としての自己とその存在を定型化し、中世的コスモスの中心的位置を占めていた神に変わって、新しく自我を世界認識の原点としてたてのである。
     Cogito ergo sum.「我思う、故に我有り。」
    デカルトは、外界のいっさいを疑った。そうすると、そのいっさいのものの存在は夢か幻かにすぎないものになり虚空に消え去る。確実性を求めて外の世界をさまよっていた彼の精神は、いやおうなしに自己の内部へと帰っていく。そこで彼は、疑いつつある自己の存在は疑いきれないということに気がつく。
    ここに、意識の「内部」としての「疑いつつある自己」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。
    個人主義的世界観とルネサンス
    近代哲学思想の夜明けを告げるデカルトの命題は、同時に近代芸術の始まりでもあると言えよう。
    中世以前の西洋では、この世界の創造主である神の存在が当然に人々の共通の認識として存在していた。「万物の源泉」の資格や、物事を「創造」する能力は、神や自然のものであり、人間のものではなかった。このことは、ルネサンス以前、受胎告知や天地創造などを題材とした写実的な絵画が多く描かれていたことからも理解できる。
    つまり、聖書や宗教画に描かれている数々の事象は中世の人々にとっては現実であり、真実であったのだ。
    「創造者」と芸術家との間にはどのような違いがあるでしょうか。
    創造するものは存在自体を与えます。無からあるものを引き出します。そして、これは厳密な意味で全能者だけが行うものです。反対に、芸術家はすでに存在しているものを使用します。そして、それに形と意味を与えます。このような仕方は、神の似姿である人間に固有のことです。実際、神が男と女を「ご自分に似せて」創造したと述べた後、聖書は地を支配する役割を彼らに託したことを付け加えています。これは創造の最後の日のことでした。
    それに先立ち、宇宙の変化のリズムを表しているかのように、神は世界を創造しました。最後に神は人間を創りました。それは神のご計画の中でもっとも高貴な実りであり、神は人間に、ご自分の創造の能力を説明する広大な領域としての目に見える世界をゆだねました。
    このため、神は人間を存在へと呼びかけ、芸術家の役割を委託しました。「芸術家の創造」のうちに人間は「神の似姿」以上のものをあらわし、そして人間固有の素晴らしい「素材」を形成し、人間の周囲の世界に対する創造的支配を行使する前に、この役割を具体化しました。愛に満ちた配慮をもって芸術家である神はその超越的な知恵のきらめきを人間である芸術家に与え、その創造的能力を共有するように呼びかけました。
    しかし、デカルトに始まる、考える自己としての「個」を中心におく個人主義的世界観は、従来の社会を大きく変えた。個人の自由が基礎におかれ、経済分野では競争の自由や利潤追及の自由などによって自由主義的資本主義を形成し、文学では主人公小説(ロマン)が出現、自我を磨きあげて人間を確立し、そのなかに人間の幸福の可能性を求めた。
    この、人間中心の個人主義的世界観の発展はルネサンスと呼ばれ、美術の分野においても新しい技法を発明していた。
    中世とは異なる様態で示された平面の遠近法である。固定視座から見ることによって構成されるこの空間構造は、「消失点」によって閉ざされる空間のなかで、観察者を不動の中心に位置させるものであって、この新しい空間構成は個人主義的世界観を補強するものであったといえる。
    ルネサンスの人々は、この袋の口を閉ざすように消失点で密封した世界をいかに制御するかに関心を寄せ、「秩序」「均整」「有限性」という新しい美の基準を築き上げた。そして自らの世界をもこの基準に基づいて整理しようとした。つまり、世界を有限のものとみなし、これを均整ある秩序の下で律することが人間に幸福をもたらすという確信である。
    その後長らく、このルネサンスは西洋美術の理想の時代とみなされた。
    破壊と創造 ―ダダからシュルレアリスムへ―
    不動の固定視座から眺めるものであるにせよ、「考える私」が捉えるものであるにせよ、個人主義的世界観が成立させた世界は、逆に人間を閉じ込めることになる。もともとその世界は、自我が不動の中心にあって肉体を失い、精神の一点として確定されたときのみ存在するものである。しかし、異なる角度からこれを見るなら、そこにある人間には、自由が無い。そして、その世界は、快適ではあるが自由の無い独房となる。
    二大戦間の混沌とした世界のなかで、自我に縛られ独房に捉えられた人間は、精神の開放を求めるようになった。ダダイズムの起こりである。大戦に対する抵抗、それによってもたらされた虚無を根底にもち、既存の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊、を目的としたこの運動で、芸術家達は囚われた精神の開放を試みた。
    ダダは全てを否定した。あらゆる既成美学と伝統形式を否定し、ジャンルを打ち破ったばかりでなく、作者の個性を誇示する技術的表現までも否定した。その結果、「レディ・メイド」と呼ばれるような作品が登場することになる。
    しかし、「ダダは何も意味しない」。ツァラのこの言葉からも明らかなように、ダダは既存の事象すべてを破壊することを目指していたが、その破壊の後に新たな秩序や派閥を創造することは目的ではなかった。
     破壊したものの後に誕生したのが、ダダの死灰の中から生まれた不死鳥だといわれるシュルレアリスムである。
    アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの第一宣言の中で、シュルレアリスムとは何か、に答える簡単な定義として「口頭や記述その他あらゆる手段で、思惟の真実の過程を表そうとする心的自動法(オートマティスム)である」また、「理性による一切の統制や、美学的ないし倫理的な一切の先入主なしにおこなわれる思惟の真実の書き取りである」と述べている。シュルレアリストがオートマティスムをとくに重要視したのは、合理で固められ抑えられていた想像力を開放しようとする一種の人間革命を目指したからにほかならない。想像力の開放が、人間に幸福をもたらすというのは、シュルレアリストの確信であった。
     デカルトが外部(肉体)と内面(精神)とを分かち、ルネサンスはその精神を平面絵画に閉じ込め、秩序によって統制した。ダダはその檻を破壊し、精神を開放した。そしてシュルレアリスムは無意識を外部にもたらすことによって、人間性の綜合を試みたのである。

    このレポートを書くにあたり普段は全く触れることの無い哲学に触れ、そこでテーマとして取り上げたい事柄が見つかったのは私にとって僥倖であった。しかし困ったことに、序盤で広げすぎた風呂敷を畳むのに苦労し、最終的に尻切れトンボのようなレポートに仕上がってしまった。デカルトの哲学、ダダ・シュルレアリストの思想、それらを一本の文章におろすことは手に余る試みだったようだ。
    ただ、序で述べたように、ダダやシュルレアリスムの思想に少し近づくことはできたのではないかと思う。これからは、今まで敬遠していたこれらの芸術作品に触れる機会を増やしてみようと思う。以前とは違った見方ができるはずだ。
    参考文献
    方法序説 デカルト
    人と思想 ―デカルト― 伊藤勝彦
    シュルレアリスム宣言 アンドレ・ブルトン
    コレクション 滝口修造 9巻 滝口修造
    辻邦生作品集全6巻 2巻 辻邦生
    近代の孤独 饗庭孝男
    ヨハネパウロ2世『芸術家への手紙』より

    コメント1件

    digix_lomo 販売
    文学の講義の期末レポートで提出したもの。
    講義内容はシュルレアリスム関係、レポートの内容は表題通りです。
    2008/06/15 17:00 (16年6ヶ月前)

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