本書には、政治家や学者というより、宗教家の書いた論文が多い。このことが本書の論調にきわめて大きな影響を与えている。彼らは、信仰の大切さや切実さというものを誰よりも知っている。だからこそ政教分離の原則や内面の自由の原則を大切にする理由が痛いほどよく分かるのである。以上のように、国家が個人の信仰を大切にしなければならないなら、靖国という宗教的施設ではなく、宗教的に中立で、特定の宗教に偏らない施設での追悼が必要になるはずである。であるから、本書の多くの論者は新しい追悼施設を作ることに関して好意的である。ここでなんといっても注目すべきは、本書が追悼の必要性と、その宗教性に関しては強く肯定している点である。彼らは遺族の気持ちを軽んじているのでは決してないのであり、人間の精神がある意味での宗教的救済を必要としている点を認めるのである。ただ攻撃するのは、そのような追悼が、自国中心主義的、天皇中心主義的な思想を持つ国家神道の神社である靖国神社で、国家によって行われることなのである。保守陣営はこの点を完全に誤解していることが多い。彼らは、靖国反対論者が、戦争で大切な人を失った遺族の悲しみを理解していないと考えることが多い。しかし、その遺族は、様々宗教を信じているだろうし、あるいは信じていないかもしれない。その場合、全てまとめて一律に、国家権力によって、追悼のあり方が特定の宗教によって決められてしまうことこそ、遺族感情を無視している。保守派が考える「遺族」とは、日本遺族会に所属する遺族のように、ごく一部の「遺族」でしかないのである。菅原氏は、「戦争で犠牲になられた方々を悼むには、神社よりも墓がふさわしい」と語っている。「本当の追悼とは、死体や遺骨をおそれたり拝んだりすることではなく、死者との出会いを機に自分自身と向き合うことである。我が身の過去を振り返り、おごりを恥じ、他社との共生を誓わなければならない。であれば、無言の遺骨を納めた墓の前で、新たな戦争を決意する人などいないだろう」(31頁)。
大切なことは、これ以上の憎しみを作り出さず、これ以上戦争を作り出さないことであろう。であるとするなら、中国や韓国の「内政干渉」を憎むよりは、彼らと融和して行く道を探る方がよいと思われる。保守陣営は、自らの無根拠なアイデンティティを守るために、他者を作り出し、それを憎むことしかできないように思われる。
筆者はこの小論で、菅原伸郎編著『戦争と追悼 靖国問題への提言』(八朔社、2003年)を参考に、靖国問題について論じようと思う。本書は、菅原信郎、廣橋隆、幸日出男、児玉暁洋、本多静芳、池田行信、稲垣久和らによる論考からなっているが、基本的に全ての論者が、首相の靖国神社に対する公式参拝に反対している。その理由としては以下が、もっとも大きなもののようである。「靖国神社は1952年以降、宗教法人格に基づく宗教法人として存在してきた。自らが申請して宗教団体であることを宣言してきたのである。神職らが祭司を日々厳かにつとめてもいる。そうである以上、日本国憲法第20条、第89条に照らして、国は特別な待遇を与えてはならないはずである。国家護持や公式参拝が許されるはずはない。(中略)今改めて思い起こしてもらいたいのは、この社会には神社神道以外の信仰を持つ人たちが大勢いることだ。(中略)そうした思想や信仰の自由を無視しないでもらいたい」(ⅲからⅳ頁)。そして、以下のように続く。「2001年春、首相に選ばれたばかりの小泉氏は靖国神社に参拝した。国内外から猛反発を受けると、どこまで本気だったかは分からないが、『...