志賀直哉はありのままの文体で有名である。私小説でありながらどこか客観的視点をも保持した「立場なき立場」でいくつもの傑作短編小説を発表し続け、ついには「小説の神様」とまで呼ばれるようになった。その志賀直哉の唯一の長編小説が「暗夜行路」である。この作品は大正十年に、雑誌「改造」に前編を発表してから十六年たった昭和十二年にやっと完成されたものであるが、全体のプロットはもとより細部の細かい描写に関しても、いくつもすばらしい部分がある。例えば、鞍馬寺の祭礼の部分。鞍馬から帰ってきた謙作はそこで始めて長男の誕生を知ることになるのだが、つまり、全体の流れの中で、ここで友人達と祭礼見物に行き、なおかつ、そこに描写されている如き経験や感情は孤立していると言えないだろうか。「暗夜行路」とは一貫性を持った長編小説である。簡単なあらすじとしては「主人公の時任謙作は、祖父の妾だった女性と分家住まいをしながら気ままに暮らす作家志望であり、旅先の尾道で自分が祖父と母との間に生まれた不義の子であることを知らされ衝撃をうける。そして、その重い心は京都で見初めた直子との結婚で和らぐのだが、留守中にその直子が幼なじみの従兄弟と過ちを犯したことがわかってまた悩む。許すべきであるのに許しえないことへの葛藤。謙作は山陰の旅に出る。」といったものだがしかし、その全編を読み通さなくても、その中のどれか一章だけ、もしくは一描写を拾い読みしてみた場合でも、それだけで話の前後とは関係なくまるで一つの小説を読了したかのような気分に浸ることができる。つまり、「暗夜行路」は長編でありながら、あたかも短編を読んでいるような、志賀直哉の得意とする短編的要素もふんだんに織り込まれている稀有な作品といえるのではないか。もう一つ秀逸な表現を例として挙げると、主人公謙作に人間関係のわずらわしさを語らせるときに「人と人と人との関係」という表現がある。なにともない文章であるが、「人」が通常より一つ多いのである。たったこれだけの表現であるが、そのわずらわしさが浮き彫りになる。神様と言われる所以である。
志賀直哉はありのままの文体で有名である。私小説でありながらどこか客観的視点をも保持した「立場なき立場」でいくつもの傑作短編小説を発表し続け、ついには「小説の神様」とまで呼ばれるようになった。その志賀直哉の唯一の長編小説が「暗夜行路」である。この作品は大正十年に、雑誌「改造」に前編を発表してから十六年たった昭和十二年にやっと完成されたものであるが、全体のプロットはもとより細部の細かい描写に関しても、いくつもすばらしい部分がある。例えば、鞍馬寺の祭礼の部分。鞍馬から帰ってきた謙作はそこで始めて長男の誕生を知ることになるのだが、つまり、全体の流れの中で、ここで友人達と祭礼見物に行き、なおかつ、そこに描写されている如き経験や感情は孤立していると言えないだろうか。「暗夜行路」とは一貫性を持った長編小説である。簡単なあらすじとしては「主人公の時任謙作は、祖父の妾だった女性と分家住まいをしながら気ままに暮らす作家志望であり、旅先の尾道で自分が祖父と母との間に生まれた不義の子であることを知らされ衝撃をうける。そして、その重い心は京都で見初めた直子との結婚で和らぐのだが、留守中にその直子が幼なじみの従...