正徹の詠作方法についての考察
―「寄草恋」の歌から―
一 はじめに
(a) 本課題の意義
正徹の残した和歌に触れるようになって、三ヶ月あまりが過ぎた。その間私は自ら発表することはなかったが、毎週のプレゼンテーションにおいては、その個々の和歌の理解・解釈に最大限努めてきたつもりである。しかしながら、彼の詠む和歌を十分に咀嚼しその意を自分のものにするためには、背景となる基礎知識の充足と、その知識に見合うだけの情緒的想像力が必要なのだということを、発表回数が進むにつれ、私は深く実感していった。
そういった中でこの課題に臨んだのであるが、今回の考察においては、右に述べたような理解への必要要素が自分に不足していることをさらに私をして知らしめることになったのは言うまでもない。だが、本課題において初めて「詠作方法」というような、これまでの「解釈」という着目点とは異なる視座を認識することができたことにまず意義を感じるとともに、拙くも左のような考察をすることができたという点で、新たな端緒が開かれたのだと考えたい。次に本課題の考察の内容を述べる。
なお、本課題においてはB「寄草恋」の歌を対象として用いることとする。
(b) 歌題「寄草恋」について
まず初めに、Bの歌題である「寄草恋(くさによするこひ)」について簡単に確認する。この歌題は恋歌の中では一般的であり、説明をつければ「恋(恋心)を草に託して詠んだ歌」と言えるだろう。オーソドックスな歌題であるため、この時代の歌合においてはかなり頻繁に持ち出され、類型は「寄月恋」、「寄霜恋」、「寄衣恋」というように多岐に渡っている。また、「寄寒草恋」、「寄忍草恋」、「寄思草恋」などの特定の草木を対象とすることを明示した発展形の歌題も見られ、『草根集』や『題林愚抄』にも記載されている。この歌題においては、後者のように草の種類が明示されることがなくとも、「草」を特定の名称や意を持つ歌語に適用して詠むことが多く、それらは「忍草」、「下草」、「忘草」、「勿忘草」、「若草」、「いつまで草」など、枚挙に暇がない。「……に寄する恋」の歌題のパターンには、動物、自然の景物、身近な品々などに恋心を託したものが挙げられるが、その中でも「草」は歌ことばとして用いられる語の種類やその使われ方も豊富であり、繊細な歌作りの可能な歌題と言うことができるだろう。
二 詠作方法について
(a) 「草を冬野」からの考察
さて、右のように「寄草恋」という歌題について簡単に述べたが、正徹はこの歌題に対してどのような方法で詠作に至ったのであろうか。それが今回の本題である。
詠作方法を論じるにあたって、このBの和歌の中から抽出したい二つの表現がある。第一に、「草を冬野」(或いは「冬野の草」)というものである。この表現が用いられている歌を、整理のために以下に挙げる。
七八四八 秋よりも露ぞこぼるる時過ぎて草を冬野とかれし契に
七八五一 うらみこし草を冬野の契だになべての後の露の通ひ路
七八六二 尋ねみよ草を冬野の契だに春待つ雪のしたのみどりを
七八六五 露結ぶ契りも絶えて朽ちぞ行く尾花が本の草を冬野は
(七八五五 枯れやらぬ冬野の草の露ばかり残す契りの色もうらめし)
先に挙げた四首であるが、いずれも「草を冬野」の形が組み込まれている。但し七八五五の歌については表現部分の形の違いから、今は保留しておくことにする。また下線部分も後の項で述べるためここでは触れない。
さて、この「草を冬野」だが、この四首を眺めてみると真っ先に、太字部分における「草」と「冬野」各々に、その直後にあ
正徹の詠作方法についての考察
―「寄草恋」の歌から―
一 はじめに
(a) 本課題の意義
正徹の残した和歌に触れるようになって、三ヶ月あまりが過ぎた。その間私は自ら発表することはなかったが、毎週のプレゼンテーションにおいては、その個々の和歌の理解・解釈に最大限努めてきたつもりである。しかしながら、彼の詠む和歌を十分に咀嚼しその意を自分のものにするためには、背景となる基礎知識の充足と、その知識に見合うだけの情緒的想像力が必要なのだということを、発表回数が進むにつれ、私は深く実感していった。
そういった中でこの課題に臨んだのであるが、今回の考察においては、右に述べたような理解への必要要素が自分に不足していることをさらに私をして知らしめることになったのは言うまでもない。だが、本課題において初めて「詠作方法」というような、これまでの「解釈」という着目点とは異なる視座を認識することができたことにまず意義を感じるとともに、拙くも左のような考察をすることができたという点で、新たな端緒が開かれたのだと考えたい。次に本課題の考察の内容を述べる。
なお、本課題においてはB「寄草恋」の歌を対象として用いるこ...