福沢諭吉と世界 ―近代化に際して―
1、 はじめに
福沢諭吉は複雑だ。物事を一義的に判断するタイプの人物ではなく、多義多様性に富んだ思考の持ち主と言える。多くの著作の内容を見ても、その傾向はよく伺えるところのものでもある。しかし、その柔軟な姿勢は全て、一貫した強い理念の範囲内で成り立つものであった。福沢が生涯持ち続けた一定のスタンスとでもいうべきものが『文明論之概略』(福沢諭吉、1875年刊)や、『脱亜論』(同、1885年発表)などの著作によく表れている。
では、福沢は一体どのような思想、あるいは理想や目的といったものを掲げていたのだろうか、またそういった福沢の考え方が形作られた経緯ないし展開とはどういったものだったのか。さらに、そういった断固たる考えの下で様々な活動を行った先覚者としての福沢が、歴史にどのような意義を与えたのか。こういったテーマを、このレポートの中で取り扱っていきたい。
2、 福沢諭吉の文明観
時に江戸末期、明治維新の頃には、福沢は三十代前半であった。この歴史上の観点から見ても非常に重要で、且つ様々な主義主張が飛び交う複雑な局面のなかで、福沢は自分の考えを明確に見出していた。すなわち、国策として攘夷論を廃し開国の道を辿るべきだというものである。福沢がこういった開国論を重んじたのには次に述べるような西欧文明観が重要な背景となっている。
三度に渡って、高官ではないが幕臣という立場で西洋諸国に航し西欧文明を観察していた福沢は、その目で見て取った西欧文明の内実を『西洋事情』(福沢諭吉、1866年刊)に記している。その内容は欧米諸国の文明の諸制度や国ごとの詳細な紹介などを主とし、幅広い分野に及ぶものである。ここで、この著作で取り扱っている主な項目を挙げてみると、政治、経済、収税法、兵制、学校、外国交際、病院、貧院、唖院、盲院、癲院、博物館、蒸気機関、瓦斯燈などで、この各項目には福沢の関心がおのずからよく表れているといえるだろう。制度的、経済的な分野、技術や機械についての記述が多く、また病院、貧院、唖院といった社会施設の紹介も多く見られる。こういった傾向は、福沢が社会科学のような実学を重んじ、文学や美術、学問のような無形文化には関心が薄かったことが伺える。
こういった実学志向の福沢は、そのような観点から日本文明が西洋文明に後れていることを痛感し、開国、すなわち西欧文明の摂取に対して意欲的に取り組んだのである。福沢はまた『概略』で、世界の文明について「今、世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、支那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称し、阿非利加及び墺太利亜等を目して野蛮の国」(『文明論之概略』、25頁)とすると述べている。つまり福沢は世界の各地域を文明・半開・野蛮の三種に分類し、それを文明の発達段階だととらえているのである。そして最終的な目的は「士農工商各其分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立す」る(『学問のすゝめ』)という提言によって明らかにされている。これは、「個々人がその業に励むことによって自立し、その個々人の総和力を結集して近代化を進めるという方針」(松永昌三、『福沢諭吉と中江兆民』)であり、福沢が西欧文明の摂取によって目指す近代国家設立の青写真であった。
この提言から分かるように、福沢はただ盲目的に西欧文明に追従するのをよしとしなかった。彼の目指すものは国家的自立であり、列強諸国に対する被植民地的な依存、被支配ではなかったのである。『概略』で彼が言うには、現
福沢諭吉と世界 ―近代化に際して―
1、 はじめに
福沢諭吉は複雑だ。物事を一義的に判断するタイプの人物ではなく、多義多様性に富んだ思考の持ち主と言える。多くの著作の内容を見ても、その傾向はよく伺えるところのものでもある。しかし、その柔軟な姿勢は全て、一貫した強い理念の範囲内で成り立つものであった。福沢が生涯持ち続けた一定のスタンスとでもいうべきものが『文明論之概略』(福沢諭吉、1875年刊)や、『脱亜論』(同、1885年発表)などの著作によく表れている。
では、福沢は一体どのような思想、あるいは理想や目的といったものを掲げていたのだろうか、またそういった福沢の考え方が形作られた経緯ないし展開とはどういったものだったのか。さらに、そういった断固たる考えの下で様々な活動を行った先覚者としての福沢が、歴史にどのような意義を与えたのか。こういったテーマを、このレポートの中で取り扱っていきたい。
2、 福沢諭吉の文明観
時に江戸末期、明治維新の頃には、福沢は三十代前半であった。この歴史上の観点から見ても非常に重要で、且つ様々な主義主張が飛び交う複雑な局面のなかで、福沢は自分の考えを明確に見出し...