嘉村礒多と『業苦』
一 作者について
嘉村磯多(かむらいそた)
明治三十(一八九七)~昭和八(一九三三)
小説家。山口県出身、山口中学中退。生家は山口地方でも知られた地主。
明治三十年 一歳
明治三七年 八歳
明治三九年 十歳
明治四三年 十四歳
明治四四年 十五歳
大正三年 十八歳
大正七年 二二歳
大正八年 二三歳
大正十年 二五歳
大正一一年 二六歳
大正十二年 二七歳
大正十三年 二八歳
大正十四年 二九歳
昭和三年 三二歳
昭和四年 三三歳
十二月十五日、山口県吉敷郡仁保村上郷(現在は山口市)に嘉村若松の長男として生まれた。父は上郷では屈指の地主。
四月仁保村立大富小学校に入学。成績は優秀だが、最も小柄だった。
一月、妹イクヲが生まれ。祖母が他界。この頃蘆花の作品を読み始める。
四月、仁保村立仁保小学校高等科に入学。
四月、県立山口中学に入学、寄宿舎へ入った。徳富蘆花、大和田健樹、大町桂月等の文を愛読した。
四月、四年生に進級したが、思い倦怠感に襲われ、無断欠席するようになり中学を退学。蘆花の書に親しむ。キリスト信者の本間俊平を訪ねて通うが信者にはなれず。その後桃林皆遵に師事し仏教信者になる。
秋、一歳年上の藤本静子と結婚。
勤務先の村役場を退く。妻の結婚前の男性関係に対する疑惑・嫉妬から不和が進行。十二月、長男松美誕生。
四月、上京。「先生の墓に詣でて」を『梁川追想録』に掲載。
念仏行者・近角常観を訪れ、その思想に傾倒。妻といよいよ不仲。
四月、指方龍二・井上昌一郎らと同人雑誌「黒潮」を創刊、初号に「呪われた子」、二号に「あはれな男」を大江礒多のペンネームで発表。
一月、「法悦」に「東京より帰りて」、二月、「野村隈畔さん有島武郎さん」、七月、「道徳にあらず業報なり」を寄せる。秋、中村女学校の書記となり、裁縫助手の小川ちとせと出逢う。
一月、「法悦」に「人師戒師停止すべきこと」を発表。四月、ちとせと二人
で駆落ち・上京、本郷森川町新坂上、毛利方二階に止宿した。職を得ず生活に窮し、しばしば自殺を考える。六月、京橋浜町の帝国酒醤油新報社に漸く入社。
『業苦』を「不同調」に発表。同人間にかなりの好評を得る。七月、同誌に『崖の下』を掲載。宇野浩二に「傑作」と称され、文壇で注目を受ける。
一月、『父となる日』を「不同調」に発表。二月、「不同調」廃刊。七月、『生別離』(「新潮」)、八月『孤独』(「今日」)。十二月、反プロレタリア文学を標榜する「十三人
昭和五年 三四歳
昭和六年 三五歳
昭和七年 三六歳
昭和八年 三七歳
昭和九年
昭和十六年
昭和三九年
倶楽部」が川端康成、加藤武雄によって創刊、これに加入。
妹と七年ぶりに再会。『曇り日』(「新潮」)『一日』(「報知新聞」)『七年目に』(「十三人倶楽部」)『秋立つまで』(「新潮」)を発表。『フジ』(「近代生活」)などの随筆も手がける。新潮社から「崖の下」初刊行。
この頃田山花袋を愛読。『ある晩』『古手帳から』を「作品」に発表。牧野信一主宰の「文科」の執筆メンバーに加わり、『丸橋とのこと』『夏近し』をこれに発表。
帰郷し、ちとせを父母親族に紹介。一月、「中央公論」から「途上」二月号掲載の通知を受け取り、歓喜のあまり失神する。『明治大正昭和文学全集』にて『嘉村礒多編』が刊行される。二月「中央公論」に『途上』が掲載され、好評を博す。この年も短編や随筆を意欲的に発表。
一月、『神前結婚』を「改造」に、四月『父の家』を「中央公論」に発表。随筆としては『覚え書』(「新潮」)『感謝』『挨拶に代
嘉村礒多と『業苦』
一 作者について
嘉村磯多(かむらいそた)
明治三十(一八九七)~昭和八(一九三三)
小説家。山口県出身、山口中学中退。生家は山口地方でも知られた地主。
明治三十年 一歳
明治三七年 八歳
明治三九年 十歳
明治四三年 十四歳
明治四四年 十五歳
大正三年 十八歳
大正七年 二二歳
大正八年 二三歳
大正十年 二五歳
大正一一年 二六歳
大正十二年 二七歳
大正十三年 二八歳
大正十四年 二九歳
昭和三年 三二歳
昭和四年 三三歳
十二月十五日、山口県吉敷郡仁保村上郷(現在は山口市)に嘉村若松の長男として生まれた。父は上郷では屈指の地主。
四月仁保村立大富小学校に入学。成績は優秀だが、最も小柄だった。
一月、妹イクヲが生まれ。祖母が他界。この頃蘆花の作品を読み始める。
四月、仁保村立仁保小学校高等科に入学。
四月、県立山口中学に入学、寄宿舎へ入った。徳富蘆花、大和田健樹、大町桂月等の文を愛読した。
四月、四年生に進級したが、思い倦怠感に襲われ、無断欠席するようになり中学を退学。蘆花の書に親しむ。キリスト信者の本間俊平を訪ねて通うが信者にはなれず。そ...