返還後の香港事情

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    アジアの言語と文化レポート
    「返還後の香港事情」
    今年の7月1日で、香港が中国に返還されて10周年を迎えた。授業で行ったグループ発表でも取り上げられた香港返還をテーマに、香港と中国大陸のそれぞれの視点から調べようと思う。
     香港は19世紀末からイギリス直轄植民地として、イギリス国王が任命する総督により支配されていた。政治的には、1842年のアヘン戦争後に締結された南京条約で割譲された香港島を中心とする。古くはイギリスの中国進出の拠点となっていた。1945年の第二次世界大戦の終結に伴い日本軍が去った後、中国国民党率いる中華民国が中国大陸を統治していた時期まで、香港の境界は開放的であり、人の移動も自由であった。しかし、その後国共内戦が始めると、多くの避難民が本土から流入し始めた。1949年に中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が「建国」されると、共産党政府による圧制を嫌い大量の難民が香港に流入したため香港政庁は中華人民共和国との境界線を閉鎖した。この閉じられた領域の中で、時間が経つにつれ、中国系住民に「香港人」としてのアイデンティティも形成され始める。また、香港に流入した大量の難民は、安い労働力として経済発展の基礎となった。1949年の中華人民共和国成立に前後して、上海の紡績資本などの資本の流入があり、そのため、軽工業が発展した。1960年代には、中華人民共和国の文化大革命の影響による政情不安と一部紅衛兵の流入が発生し、1967年には香港暴動が起こる。こうした事態を受け、当時の香港政庁も社会や政治の安定化に留意する必要が出てきた。そのため、中国系住民を扱う華民政務署を民政署と改称し、社会政策の拡充を図った。マクレホース総督による地下鉄建設や郊外の開発、9年間の義務教育の実施が始まったのも、この時期である。また、1973年に発生したピーター・F・ゴッドバー警察高官の汚職、逃亡事件が住民の大きな反感を買い、香港政庁は「廉政公署」(ICAC、独立汚職取締り委員会)という役所を設置した。更に、1970年代から1980年代にかけては、各層議会における任命議席の撤廃や縮小と民選化部分的な民主化も始まる。中国大陸との関係では1963年以降、中国が「香港の地位の現状維持」を認める意向を明らかにし、1972年には英中大使交換協定で友好関係が固まった。香港返還をめぐっては、1982年から中国、イギリス間で協議が続けられ、1984年12月に共同宣言に調印された。1992年に就任したクリストファー・パッテン総督は1995年に大胆な議会の民選化を実施する。その背景には、1989年の天安門事件における虐殺行為によって、中華人民共和国に対する香港住民の不信が大きくなり、返還後に不安を持つ住民の脱走が相次いだことや、民主化の流れを作ることでイギリスの影響力を確保する意図があったといわれる。
     2007年現在の香港と中国大陸の政治体制関係は一国二制度と呼ばれている。文字通り、中華人民共和国と言う一つの国の中に政治制度が二つ存在する制度である。中国大陸から、香港やマカオのように分離した地域で、主権国家の枠組みの中において、高度な自治権と国際参加を可能とする。この制度は、1997年のイギリスから中華人民共和国への返還の際、「香港は返還後50年間政治体制を変更しない」ことを中華人民共和国当局が確約したことによる。一国家二制度をバックアップしている法的根拠は、中華人民共和国憲法第31条に記載されている特別行政区に由来する*1。全国人民代表大会が特別行政区内の憲法的存在である「特別行政区基

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    「返還後の香港事情」
    今年の7月1日で、香港が中国に返還されて10周年を迎えた。授業で行ったグループ発表でも取り上げられた香港返還をテーマに、香港と中国大陸のそれぞれの視点から調べようと思う。
     香港は19世紀末からイギリス直轄植民地として、イギリス国王が任命する総督により支配されていた。政治的には、1842年のアヘン戦争後に締結された南京条約で割譲された香港島を中心とする。古くはイギリスの中国進出の拠点となっていた。1945年の第二次世界大戦の終結に伴い日本軍が去った後、中国国民党率いる中華民国が中国大陸を統治していた時期まで、香港の境界は開放的であり、人の移動も自由であった。しかし、その後国共内戦が始めると、多くの避難民が本土から流入し始めた。1949年に中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が「建国」されると、共産党政府による圧制を嫌い大量の難民が香港に流入したため香港政庁は中華人民共和国との境界線を閉鎖した。この閉じられた領域の中で、時間が経つにつれ、中国系住民に「香港人」としてのアイデンティティも形成され始める。また、香港に流入した大量の難民は、...

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