この『光あるうちに』という文章を読み始めて間もない段階で、私は今記したひと時の考えを思い出した。そして、宗教(自分にとってはキリスト教だった)というものを「神(イエス)という存在を寄りしろとした、ある一定の価値観の統一」として捉えていた自分に気づいた。結論から言えば、今現在読み終えた段階に於いてもこの表現自体は間違っていないと考えている。しかし当時の私は、まさしくサッカーのルールと選手の関係が如くにのみ、キリスト教と信仰する者の関係を考えていたように思う。結局のところキリスト教というものを「制約」、極端に言えば、ある種の「規則」という風にしか捉えていなかったのではないか、と。そして今、よくよく考えれば分かることだったのだが、当然それは根本的に間違いであるである事が分かった。
思うに、神の教えの中では善しとされるものと悪しきとされるもの、ひいては生と死までもが表裏一体であり、等価値に存在しているのではないだろうか。「〜してはならない」といった教えは幾つもあるのだろうし、本作中にも取り上げられていたが、それは「ルール」といったものとは違うのだろう。罪なる過ちを犯すこと、これは即ちペナルティを負うような類のものではなく、それ自体が人間を人間たらしめているものだ。そして、同時にその事実さえもが神の手の中にある。だからこそ信仰を持って祈れば、罪という形で偏ってしまった心が在るべき姿に導かれ、全てが等しく浄化されるということではないだろうか。
キリスト教概論レポート
読書感想文 「光あるうちに」
先のワールドカップ…日本全国の老若男女が、その代表たるブルーのユニホームの奮闘に胸を躍らせていた。その様子を報じるワイドショーの中で「ここまで国民が一体感を持って1つの事柄に向かっているのをかつて見たことが無い」と述べた人があった。国民性というものが希薄な日本人が、これほどまでに自国の応援に熱を上げるとは思っていなかった、ということである。このとき私は、ふと日本人の国民性の希薄さの一要因(あくまで一要因なのだが)に、その無宗教な姿勢があるのではないかと漠然と思った。そしてその無知識ぶりを裏付けるかのように自分はキリスト教しかイメージしないでこのように思っていた。しかしその時は、それ以上もそれ以下も考えることなく、テレビに映る人々と同じように「にわかサッカーファン」に舞い戻っていった。
この『光あるうちに』という文章を読み始めて間もない段階で、私は今記したひと時の考えを思い出した。そして、宗教(自分にとってはキリスト教だった)というものを「神(イエス)という存在を寄りしろとした、ある一定の価値観の統一」として捉えていた自分に気づ...