シエラレオネ
~政府の問題点~
1、はじめに
アフリカ諸国の多くはヨーロッパの植民地から独立し、現在は自国の政府で政治を行っている。しかし、独立してまだ日が浅いということもあるが、多くの国では社会が安定せず、内戦が起きている。そしてこの内戦によって貧困など様々な弊害が起き、人々が苦しんでいるのだ。では、NGOや国連がアフリカ諸国に対して復興援助をするなど行動を起こしているにもかかわらず、なぜこのようにアフリカ諸国は苦しんでいるのだろうか。私は政府に問題があるのではないかと考える。今回はアフリカの一国、シエラレオネに焦点をあて、シエラレオネの歴史、内戦、またその後の復興から政府の問題点について考え、述べていきたいと思う。
2、植民地支配から見る問題点
シエラレオネ共和国、通称シエラレオネはアフリカの西部、大西洋岸に位置し、北はギニア、南東はリベリアと国境を接する国である。また平均寿命が世界で一番短いという記録を持っており(男:32.95歳, 女:35.90歳、1995年現在 アムネスティー・ナショナル日本)、世界で一番平均寿命の短い国のひとつとして有名だ。この国の寿命が短い理由として、衛生管理が不十分であることのほかに、内戦が繰り返され、社会が安定していないことが挙げられる。まずシエラレオネの植民地時代の歴史から、政府の考え方について述べる。
シエラレオネの国名はポルトガル語のSerra Leoa(ライオンの山)をスペイン語に翻訳した言葉Sierra Leónから由来している。「ライオンの山」と名付けられた理由についてはいくつかあり、現在の首都フリータウン付近にいたポルトガル人が山の方からライオンのように轟く雷鳴が聞こえたため名付けたという説や、山から海へ吹き降ろす風がライオンの咆哮に似ているので名付けたという説などがある。
このことからわかるように、シエラレオネの世界的歴史は1447年にポルトガル人が上陸したことによって始まり、その後しばらくはポルトガルの影響下に置かれた。しかし、1560年代から18世紀にかけて植民地を増やしたいヨーロッパ諸国(1)の戦略に巻き込まれ、奴隷貿易のやり取りや土地の譲渡、国同士の争いなどが国内で起こるようになる。そして19世紀初頭に奴隷制から解放された黒人達の移住地としてイギリスの植民地となり、1880年以後にはイギリスから「解放奴隷」約5万人が現在のフリータウンに移住したため、イギリスの統治が強まった。
第二次世界大戦後、各地で独立の気運が高まると、シエラレオネもほかのアフリカの国同様に1961年に独立した。しかし政権はアフリカ系の先住民(2)が握り、解放奴隷を祖先に持つ者(3)は疎外されたために対立が発生する。この民族対立がその後に起こるシエラレオネ紛争の遠因となったとも言われており、その後のシエラレオネ社会にも影響を与えていると考えられる。
今まで述べたことから、シエラレオネは独立からまだ46年しか経っておらず、自分たちの政治のあり方が確立されていないと考える。他国の支配下に置かれた期間が長く、その間の政治に携わることがほとんどなかったために、自国の政治をどう行えば一番よいかがわからないのだと思う。資料が見つからなかったため推測であるが、独立後初めて誕生した先住民による政権も、植民地であったときの不満を解消するばかりで国民全体の利益を考えたものではなかったのではないだろうか。このようなことでは国が安定することは難しく、植民地時代と同様に、支配者や権力者に対する不満が募るだけだ。シエラレオネはこのような植民
シエラレオネ
~政府の問題点~
1、はじめに
アフリカ諸国の多くはヨーロッパの植民地から独立し、現在は自国の政府で政治を行っている。しかし、独立してまだ日が浅いということもあるが、多くの国では社会が安定せず、内戦が起きている。そしてこの内戦によって貧困など様々な弊害が起き、人々が苦しんでいるのだ。では、NGOや国連がアフリカ諸国に対して復興援助をするなど行動を起こしているにもかかわらず、なぜこのようにアフリカ諸国は苦しんでいるのだろうか。私は政府に問題があるのではないかと考える。今回はアフリカの一国、シエラレオネに焦点をあて、シエラレオネの歴史、内戦、またその後の復興から政府の問題点について考え、述べていきたいと思う。
2、植民地支配から見る問題点
シエラレオネ共和国、通称シエラレオネはアフリカの西部、大西洋岸に位置し、北はギニア、南東はリベリアと国境を接する国である。また平均寿命が世界で一番短いという記録を持っており(男:32.95歳, 女:35.90歳、1995年現在 アムネスティー・ナショナル日本)、世界で一番平均寿命の短い国のひとつとして有名だ。この国の寿命が短い理由として、衛生管理が不十分であることのほかに、内戦が繰り返され、社会が安定していないことが挙げられる。まずシエラレオネの植民地時代の歴史から、政府の考え方について述べる。
シエラレオネの国名はポルトガル語のSerra Leoa(ライオンの山)をスペイン語に翻訳した言葉Sierra Leónから由来している。「ライオンの山」と名付けられた理由についてはいくつかあり、現在の首都フリータウン付近にいたポルトガル人が山の方からライオンのように轟く雷鳴が聞こえたため名付けたという説や、山から海へ吹き降ろす風がライオンの咆哮に似ているので名付けたという説などがある。
このことからわかるように、シエラレオネの世界的歴史は1447年にポルトガル人が上陸したことによって始まり、その後しばらくはポルトガルの影響下に置かれた。しかし、1560年代から18世紀にかけて植民地を増やしたいヨーロッパ諸国(1)の戦略に巻き込まれ、奴隷貿易のやり取りや土地の譲渡、国同士の争いなどが国内で起こるようになる。そして19世紀初頭に奴隷制から解放された黒人達の移住地としてイギリスの植民地となり、1880年以後にはイギリスから「解放奴隷」約5万人が現在のフリータウンに移住したため、イギリスの統治が強まった。
第二次世界大戦後、各地で独立の気運が高まると、シエラレオネもほかのアフリカの国同様に1961年に独立した。しかし政権はアフリカ系の先住民(2)が握り、解放奴隷を祖先に持つ者(3)は疎外されたために対立が発生する。この民族対立がその後に起こるシエラレオネ紛争の遠因となったとも言われており、その後のシエラレオネ社会にも影響を与えていると考えられる。
今まで述べたことから、シエラレオネは独立からまだ46年しか経っておらず、自分たちの政治のあり方が確立されていないと考える。他国の支配下に置かれた期間が長く、その間の政治に携わることがほとんどなかったために、自国の政治をどう行えば一番よいかがわからないのだと思う。資料が見つからなかったため推測であるが、独立後初めて誕生した先住民による政権も、植民地であったときの不満を解消するばかりで国民全体の利益を考えたものではなかったのではないだろうか。このようなことでは国が安定することは難しく、植民地時代と同様に、支配者や権力者に対する不満が募るだけだ。シエラレオネはこのような植民地時代のトラウマから早急に脱却し、自国又は国民全体の本当の利益を考えた政治を行っていかなければならないと考える。
3、シエラレオネ内戦と軍事政権から見る問題点
植民地支配が終わり、国は安定すると思われていたが、シエラレオネはその後数々の内戦に巻き込まれた。その中でも今回はシエラレオネ内戦に焦点をあて、内戦と軍事政権から問題を探ろうと思う。
1991年から2002年まで起きたシエラレオネ内戦は、反政府勢力の革命統一戦線(RUF)(4)と政府軍との交戦で、ダイヤモンドの鉱山の支配権をめぐって大規模な内戦に発展した。10年以上続いた内戦によって5万人が命を落とし、1万人が手や足を切断され、100万人の人々がホームレスとなっているといわれている。
1991年に隣国リベリアのチャールズ・テーラー(5)率いるリベリア愛国戦線(NPFL)(6)はシエラレオネのリベリア内戦への派兵に抗議し、シエラレオネに侵入した。また、シエラレオネのアハメド・フォディ・サンコー(7)率いる革命統一戦線(RUF)も同胞のテーラー率いるNPFLの内戦の影響を受けてリベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂起し、こうしてシエラレオネ内戦は起こった。その頃、シエラレオネの政権では1992年4月29日バレンタイン・ストラッサー(8)率いる軍の下級将校が軍事クーデターを起こし、ストラッサーが国家元首になった。ストラッサーの当初の目的は国内に侵入したリベリアのテーラー率いるNPFL及びそれに合流したサンコー率いるRUFの反政府活動を鎮圧する事であったが、RUFはその後虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配して行き、領域内で産出されるダイヤモンドを資金源に大きな勢力を振い、そしてついに首都フリータウンを占領した。1995年、政権内部でクーデターが起こり、ストラッサーは政権を追われた。1996年、無血クーデターによる自由選挙でアフマド・テジャン・カバー(9)が大統領として選ばれ、文民政権に就任するが、RUFはこの文民政権と激しく対立した。1997年に軍事クーデターでカバー大統領から権力を奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐(10)が国家元首になってRUFと手を組み、共に軍事政権を樹立する。この軍事政権はナイジェリアなどの軍事介入で短命に終わったが、復活したカバー文民政権とRUFの対立はとどまらなかった。このころからRUFをはじめとした反政府勢力が子どもたちを誘拐してくるなどして少年兵を徴集しはじめた。1997年にリベリアで装蜂していたテーラーがついにリベリアの権力を握り、テーラーは同胞のサンコーを支えるため武器支援と引き換えにダイヤモンドを密輸して行った。これが最近話題となっている紛争ダイヤモンドである。その後RUFは少年兵を使ったゲリラ戦を展開するなど全土で大攻勢を仕掛け、最終的には全国土の首都を含む3分の2以上をその支配下に収めた。1999年にはロメ和平合意がなされ、国連監視下での武装解除と引き換えにRUFの政権参加が認められる事となったが、RUF側は武装解除に応じなかった。しかし逃亡中のRUFのサンコーがフリータウンの自宅で市民により拘束され、シエラレオネ警察に引き渡されると状況は変る。2000年政府はRUFと停戦に合意。RUF側は政府側の武装解除の要求に応じて行き、復活したカバー政権は2002年1月18日に武装解除を終了宣言し、3月1についに内戦終結を宣言した。
今まで述べたシエラレオネ内戦の変遷から、クーデターによる軍事政権が多いことがわかる。一概には言えないが、軍事政権は軍の権力が優先され、民衆の意思などは後回しな点があり、軍事政権から権力をまた同じ軍の力で奪おうとするため、クーデターが繰り返されて内戦が続き、逆に民衆によって選ばれたカバー政権は内戦を終結させたのだと思う。
ではなぜシエラレオネでは内戦が起こり、軍事政権が生まれるのか。それは「強い力を持つ支配者が政治を行う」という考え方があるためではないかと考える。長い植民地時代に近代的軍事力を持ったイギリス人の支配下にいたため、内戦の起こったここ最近でも強い軍事力を持つものが政治を行うべきだという考えがあるのかもしれないと思う。民衆もそのことを受け入れている点もあるのではないだろうか。また、長い内戦の歴史、支配される歴史で国民も政府に対する期待度は低いのではないかと考える。政権を握るために内戦が起こり、そして政府が変わりそのたびに影響をうけるのは国民である。内戦を起こすような政府に期待をするよりは、自分たちの力でなんとかしようとするだろう。これらのことから、シエラレオネは本当の意味で国民のことを考えた政府、国民に信頼される政府を作っていかなければならないと考える。
4、内戦後、RUFへの対応から見る問題点
では、本当にシエラレオネ政府の民衆への対応はよくないのだろうか。内戦中RUFの引き起こした紛争ダイヤモンドや少年兵の問題への対策から考えていきたいと思う。
革命統一戦線(RUF)は序盤にシエラレオネ東部のダイヤモンド鉱山を抑えたことにより豊富な資金と武器を確保し、後先を全く考えない虐殺と破壊行動を繰り返した。この際躊躇なく多数の住民の殺害、手足の切断、暴行などを行い、村々を焼き払った。また村々の少年少女を半ば拉致し、麻薬漬けにした上で少年兵として勢力に組み込み戦闘を拡大させた。依然としてこの被害で苦しんでいる人々は大勢いる。
(1)紛争ダイヤモンド
RUFはゲリラ支配下のダイヤモンド鉱山から得られる原石をリベリアに売却し、得られた多額の売却益で重火器を調達、ゲリラ活動を充実させるなど負の連鎖を繰り返した。この時取引されたダイヤモンドが「紛争ダイヤモンド」だ。
紛争ダイヤモンドとは、シエラレオネなど内戦地域で産出されるダイヤモンドなどの宝石類のうち反政府組織によって採掘されたものを言い、紛争ダイヤモンド(Conflict Diamond)、汚れたダイヤモン...