社会教育 レポ

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    「社会教育の歴史的返還、問題、今後の可能性について」
    まず始めに、社会教育と学校教育はどのように違うのだろうか。なぜ国家は学校教育のみにとどまらず社会教育という概念を造ったのだろうか。日本の「社会教育」に相当する概念として、諸外国では「成人教育(adult education 米、英)」、「民衆教育(Volksbildung 独、education populair 仏)」、「継続教育(further education 英)」、そしてユネスコの提唱する「生涯教育(Lifelong Education)」がある。社会教育とは各国特有のもので各々が教育という営みをどのように考えるかによって発展の仕方が違ってきた。それは歴史とも密接な関係があり、一種の文化とも言えよう。それでは、我が国の社会教育はどのような発展を見せてきたのだろうか論じていくことにする。  まず、日本の社会教育体制は戦争の終焉を境にだいぶ異なっている。戦前は政府による国民教化であったものが、戦後は国民が自ら考え学習しようと思うようになった。学校教育は大人にとっては義務であり、子供にとっては権利である。現代の学校はしっかりとしたカリキュラムが組まれ、さらには期間まで決められている。これは国民に対しとても親切なように見えるが、見方を変えれば「強制」と捉えることもできる。もちろん国民は必要最低限の知識は持っていなければならない。しかし、社会教育とはそういったものではない。社会教育で大切なことは「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」学習ができることである。細かく説明すると、四つの特徴が挙げられる。①学習者は個々の目的をもって活動に参加している。学校教育はあらかじめ内容が決められており、授業が課せられている。②学習者は自発的に活動に参加している。学校教育では、義務教育の場合は意欲に関係なく否応なく行くべきところとされる。③一つの学習活動においても、学習者の学歴、年齢、生活の属性は多様である。(学校教育では、学級が同学年の児童生徒で編成されていることが一般的。)④教育活動の内容が多様で制約されない。以上の四つであり、国民は誰でも学ぶ権利を持っていて、行政や自治体はその要求に応える必要があるのだ。
    先にも述べたように、日本の社会教育は戦前、国民教化であったものだが、戦後は歴史的に見ても社会教育は時代と共に変化する傾向がある。現代の社会教育の基盤となっているものに戦後提唱された社会教育の概念がある。これらは日本国民が生み出した輝かしいものとして今でも受け継がれ、真の社会教育を実現させる上での大きな指標となっている。社会教育の概念の定義の一元化は見ていないが、社会教育法第2条には社会教育の定義として、「この法律で『社会教育』とは、学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年および成人に対して行われる組織的な教育活動(体育およびレクリエーションの活動を含む)をいう。」とある。そもそも「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」(教育基本法第2条)と規定されているが、ここから学校教育も社会教育もともに、公教育を支える柱の一つであると考えられる。
    しかし、健やかな人間形成を考えたとき、学校教育には学校における学歴偏重主義の弊害など大きな問題が存在している。日本は学歴偏重主義の学歴社会である。学歴社会とは、社会における待遇をその人の学歴によって評価し、決定する傾向の強い社会のことである。あるいは、多くの人びとがそうであると信

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    「社会教育の歴史的返還、問題、今後の可能性について」
    まず始めに、社会教育と学校教育はどのように違うのだろうか。なぜ国家は学校教育のみにとどまらず社会教育という概念を造ったのだろうか。日本の「社会教育」に相当する概念として、諸外国では「成人教育(adult education 米、英)」、「民衆教育(Volksbildung 独、education populair 仏)」、「継続教育(further education 英)」、そしてユネスコの提唱する「生涯教育(Lifelong Education)」がある。社会教育とは各国特有のもので各々が教育という営みをどのように考えるかによって発展の仕方が違ってきた。それは歴史とも密接な関係があり、一種の文化とも言えよう。それでは、我が国の社会教育はどのような発展を見せてきたのだろうか論じていくことにする。  まず、日本の社会教育体制は戦争の終焉を境にだいぶ異なっている。戦前は政府による国民教化であったものが、戦後は国民が自ら考え学習しようと思うようになった。学校教育は大人にとっては義務であり、子供にとっては権利である。現代の学校はしっかりとしたカリキュラムが組まれ、さらには期間まで決められている。これは国民に対しとても親切なように見えるが、見方を変えれば「強制」と捉えることもできる。もちろん国民は必要最低限の知識は持っていなければならない。しかし、社会教育とはそういったものではない。社会教育で大切なことは「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」学習ができることである。細かく説明すると、四つの特徴が挙げられる。①学習者は個々の目的をもって活動に参加している。学校教育はあらかじめ内容が決められており、授業が課せられている。②学習者は自発的に活動に参加している。学校教育では、義務教育の場合は意欲に関係なく否応なく行くべきところとされる。③一つの学習活動においても、学習者の学歴、年齢、生活の属性は多様である。(学校教育では、学級が同学年の児童生徒で編成されていることが一般的。)④教育活動の内容が多様で制約されない。以上の四つであり、国民は誰でも学ぶ権利を持っていて、行政や自治体はその要求に応える必要があるのだ。
    先にも述べたように、日本の社会教育は戦前、国民教化であったものだが、戦後は歴史的に見ても社会教育は時代と共に変化する傾向がある。現代の社会教育の基盤となっているものに戦後提唱された社会教育の概念がある。これらは日本国民が生み出した輝かしいものとして今でも受け継がれ、真の社会教育を実現させる上での大きな指標となっている。社会教育の概念の定義の一元化は見ていないが、社会教育法第2条には社会教育の定義として、「この法律で『社会教育』とは、学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年および成人に対して行われる組織的な教育活動(体育およびレクリエーションの活動を含む)をいう。」とある。そもそも「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」(教育基本法第2条)と規定されているが、ここから学校教育も社会教育もともに、公教育を支える柱の一つであると考えられる。
    しかし、健やかな人間形成を考えたとき、学校教育には学校における学歴偏重主義の弊害など大きな問題が存在している。日本は学歴偏重主義の学歴社会である。学歴社会とは、社会における待遇をその人の学歴によって評価し、決定する傾向の強い社会のことである。あるいは、多くの人びとがそうであると信じているような、つまり学歴信仰の傾向をもつ社会関係のことである。ここでは、学歴社会のメリット、デメリットの両面から考えてみることとする。
    例えば、企業において従業者採用の指標として学歴を1つの指標とすることが多いなどの特徴がある。それは、人を評価するのが楽だからだと考える。人間の価値は学歴だけでは決まるとは決して言えないし、体格、性格、人間関係、更には癖など色々な要素が混じった上で本来、人は評価されるべきなのだ。しかし、企業は仕事の出来る人間、優秀な労働力を効率よく探そうとするので、採用者の立場から言えば、能力をはかる上で学歴は良い指標になるのである。仮に、学歴に関係なく従業員採用をする場合は、優秀な社員を捜すために長い時間をかけなければいけなくなってしまう。企業は優秀な人材が欲しいわけだから時間をかけずに、優秀な人材を確保することが先決である。そして、もしも最終選考に残ったのが体格、性格、人間関係などが同じような人だった場合、選ぶのに苦労をしてしまうだろう。そうなった場合、学歴で足切りをすることが一番良い方法なのである。以上は学歴社会におけるメリットである。しかし、学歴社会によってデメリットが生じている。「良い学校を卒業し良い会社に就職する」という学歴信仰は、学校及び家庭を中心に依然として強く残っており、学校においても「良い高校、良い大学に入学しよう」とする受験競争の中で子供に勉強をさせ、子供達に学歴社会の「良い学校を卒業し良い会社に就職する」という学歴信仰を植え付けているのである。しかも、それは知識の詰め込み教育を助長することとなり、「学ぶこと」の楽しさや喜びを奪う結果を招いてしまうのである。その結果、「なぜ勉強するのかわからない」子供が増え、大学まで進学したものの大学に通う意味もわからず、レポートを俗に言うコピペで終わらせてしまい、学校に行って「学ぶ」という姿勢が欠如した学生になっていくのである。ゆとり教育が導入された背景には、こういった学歴社会の問題があるからである。(ゆとり教育にも問題はあるのだが)
    しかし、現在でも上記のように、偏差値教育が歴然とこの社会に存在していることは確かである。現代では、学校教育に健やかな人間形成を求めることは大変難しいことである。だからこそ、社会教育が重要になってくるのではないだろうか。社会教育がしっかりと機能しているアメリカを例にして、社会教育の今後の可能性を考えてみることにする。
    近代のアメリカは、家庭の教育的役割についての概念が変化しているときであった。養育、訓育、しつけといったものが、家庭教育における重要な役割であるという認識は存在しながらも、学校教育にそれらを求めるようになってきたのである。そのため、学校は、家庭での教育的役割を分担していくことになった。近代のアメリカ社会と学校の関係についてであるが、近代のアメリカ社会は封建的社会より自由度の高い社会秩序で構成されており、その中で学校教育は、一人一人の社会の移動や社会上昇の一手段としてみなされる傾向にあった。同時に、学校教育は社会的安定に貢献するとも考えられていた。しかし、アメリカは移民国だけに様々な人種によって成り立っているために、それぞれの人種の文化圏がお互いに理解しあうことはかなり難しく、日常の何げないすれ違いが重なり民族対立を彷彿させる暴動事件のような大事件に発展することも珍しくない。だから、常に緊張感をもって生活し、人種平等、雇用・進学機会均等といった日本ではあまり実感が湧いてこない問題でも常に敏感である。歴史のないアメリカをなんとか作り上げようという精神によって、学校教育でも特権階級に占有された名門校はなく、地域社会が自発的に公共学校を作ったことが教育の原点であり、平等に教育を受ける権利を生み出した。また、一つの進路で失敗してもチャレンジ精神を失わせないように、地域社会が積極的になって設備よりもシステムの充実を図り、教育路線を複線化させたのである。
    しかし日本には、アメリカのように教育路線の選択があまりない。どうしても、学校教育の方に重点を置いてしまう傾向にある。しかし、目まぐるしく変わる時代の中でこれから社会教育は大変、重要な存在になってくることは間違いないのである。若者に限らず、これから超就職氷河期に正社員になれなかったフリーター達はもうすぐ30歳を迎えようとしている。世間では、「格差社会」の問題も叫ばれている。「格差社会」になる要因の一つに、学歴信仰がおおいに関わっていることは周知の事実である。
    そこで、活躍してくるのは社会教育施設であろう。中でも公民館、図書館などは無料で学びの場を提供してくれる代表格である。公民館は比較的、数多くある社会教育施設の一つであると言える。地域にもとてもから身近な施設であるし、学校のいろいろな行事が公民館で行われていたりするので、学校教育とも密接な関係にあるし、また、町内会の行事にも公民館は使われるので地域の関係とも密接だ。このように社会教育施設が充実すれば、地域社会も活性化し社会教育の幅が大きく広がることにもなるし、学校教育では賄えない部分もカバーできるはずである。
    社会教育の可能性として、もっと幅広く「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」を学べる場作りをしていかなければいけない。一つの進路だけでなく、幅広く進路を選ぶために、生きていくための技術を身に付けたり、学力の水準が上がることによって社会的安定を目指すために、社会教育の充実は必要不可欠であると言える。

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