「幸福と理性の関係について述べよ。」
人間は常に幸福を追い求め、幸福でありたいと願ってきた。幸福とは何か。それは人によってさまざまな捉え方がある。
今日の世界では、テロや戦争などで幸福な生活を奪われてしまった人や家族がたくさんある。お金がなく、食べものが買えず、不自由な生活をしている人も大勢いるが、その人たちにも自分なりの幸福がある。幸福とは、ものやお金で買えるようなものではなく、愛する人を大切にして、今の時間、今の自分を大切にするからだと考えるからである。
多くの人々は、幸福とは、善をなすことによってことによって獲得され、またその善は理性によって理解されると考えてきた。
たとえばエピクロスは、肉体的、感覚的快楽を否定し、身体的苦痛がなく、心が平静であること(アタラクシア)が最上の快、つまり幸福であると考えた。たとえば、好きなものを食べるのは一時の快であるが、食べすぎはやがて苦になるといったように、もしある快を味わうことで、後に身体に苦痛が生じたり、心の平静さが乱れたりするならば、その快は味わうべきではない。逆に一時的な不快や苦痛を伴うにしても、それが身体の無苦と心の平静さにつながるならば、それを引き受けるべきである。このようにエピクロスは、理性にしたがって真の快楽を選び、苦痛を避けなくてはならないと述べている。エピクロスの「隠れて生きよ」という有名な警句があるが、これも、煩わしい世間との交渉によって心を乱されることを避けるためである。心の平静さは決して無理をしない、自然に従った簡素な生活のうちで達成されるのであり、これが彼の勧めた善い生き方であった。
次に、ストア派の人々は、幸福は追い求めるものではなく、「理性に従って生きる」ことによって約束されると考えた。そこでストア派の開祖であるゼノンが勧めたのは、自然に従って生きることであり、「自然と整合的に生きること」であった。人間には動物と違って、衝動を統御する理性が自然本位的に備わっている。したがって人間の場合、自然に従って生きるとは、「理性に即して生きる」ということなのである。理性が示す理法(ロゴス)つまり普遍的法則は、人間の在り方をも含めて、自然を全体として支配している理法なのだ。よって、この理法に従って生きることが、自然と整合的に生きること、すなわち幸福を手に入れる方法にほかならないのである。逆に唯一の悪とされたのは、健康や名誉、財産など、感情や欲求に流されることであった。ストア派の人々は、そのようなものになんら惑わされることなく、心の平静(アパテイア)を保って生活をすることを理想とし、これが彼らのいう幸福なのであった。
次に、アリストテレスのいう幸福論を見てみる。アリストテレスは、人間のもつすべての能力が発揮されたとき、人間は幸福になれると考えた。彼によると人間は、植物の能力(栄養摂取、成長)と動物の能力(感覚、欲求)の他に、理性が備わっているとされた。したがって人間は、人間に特有なこの理性の能力をよく働かせることによって、善く生きることができるのである。人間が理性能力を発揮せずに生きるとすれば、それはもはや人間らしい生き方とはいえず、倫理的に悪だといえる。
アリストテレスは、善く生きることと幸福であることは同じであると考え、真の幸福は善くいきることのうちにあり、人間らしく生きる人間が幸福な人間であると考えた。幸福には常に快が伴うから、善く生きることに快を感じる人間が、真に幸福な人間であるともいえるだろう。
またアリストテレスは、理性によって示される人間の徳(道徳的に優れて
「幸福と理性の関係について述べよ。」
人間は常に幸福を追い求め、幸福でありたいと願ってきた。幸福とは何か。それは人によってさまざまな捉え方がある。
今日の世界では、テロや戦争などで幸福な生活を奪われてしまった人や家族がたくさんある。お金がなく、食べものが買えず、不自由な生活をしている人も大勢いるが、その人たちにも自分なりの幸福がある。幸福とは、ものやお金で買えるようなものではなく、愛する人を大切にして、今の時間、今の自分を大切にするからだと考えるからである。
多くの人々は、幸福とは、善をなすことによってことによって獲得され、またその善は理性によって理解されると考えてきた。
たとえばエピクロスは、肉体的、感覚的快楽を否定し、身体的苦痛がなく、心が平静であること(アタラクシア)が最上の快、つまり幸福であると考えた。たとえば、好きなものを食べるのは一時の快であるが、食べすぎはやがて苦になるといったように、もしある快を味わうことで、後に身体に苦痛が生じたり、心の平静さが乱れたりするならば、その快は味わうべきではない。逆に一時的な不快や苦痛を伴うにしても、それが身体の無苦と心の平静さに...