19世紀中頃、近代化世界の秩序や思想にとっては、大きな転換期である。その時期の日本はいわゆる「幕末」である。そうした社会で、幕末の政争が繰り広げられる。それが、尊皇攘夷と開国佐幕という二つの路線を基本的な対抗としていたことはいうまでもない。当時は目的であったそれらは、後に手段化され、維新へと辿りこむ。鋭い対立した二つの路線は、自らは意識することなく、期せずして共通の視野を生んでいたのである。その視野は二方面から上げることができる。
まず、第一は「西洋の発見」ということだ。直接に欧米諸国と交渉する立場のおかれた幕府は元より、諸藩や、尊皇攘夷派の志士たちも、欧米への関心を掻き立てられた。
吉田松陰や、その高大で尊攘派の久坂件瑞などの武士たちは、欧米列強との差を知って切迫感を感じた。西洋学を学ぼうとせずにいられなかったのである。
攘夷派の急先鋒である長州藩は、それゆえに西洋探求の急先鋒ともなった。後に、井上馨や伊藤博文は長州藩の許可の下で、留学のため、密航者としてインドへ立ち去った。
幕府では、1860年、日米通商修好条約の批准書交換のため、使節をアメリカへ派遣したのを皮切りに、さまざまの交渉や観察のため、計七回も使節団を欧米に派遣したほか、留学生団を主なものだけでも四回にわたった。しかも、また平民の福沢祐吉のように、志願の上、従者として機会をつかんだ人を少なくはなかった。
人々を欧米への開眼を迫った最大の要因は、西洋と日本の軍事力の圧倒的差とそれに根ざす危機感であった。しかし、「何でも見てやろう」との旺盛の好奇心の観察で、軍事力に集中した関心、技術、思想、気風、制度などの文化力の認識へ変わった。
その中のもっとも優れた人物は福沢祐吉。彼の名を高めた名作「西洋の事情」は、西洋社会の制度と理念の全容を噛み砕いて紹介せずにはいられなかった。
第一章「幕末という時代」より
幕末時期の日本を解読
19世紀中頃、近代化世界の秩序や思想にとっては、大きな転換期である。その時期の日本はいわゆる「幕末」である。そうした社会で、幕末の政争が繰り広げられる。それが、尊皇攘夷と開国佐幕という二つの路線を基本的な対抗としていたことはいうまでもない。当時は目的であったそれらは、後に手段化され、維新へと辿りこむ。鋭い対立した二つの路線は、自らは意識することなく、期せずして共通の視野を生んでいたのである。その視野は二方面から上げることができる。
まず、第一は「西洋の発見」ということだ。直接に欧米諸国と交渉する立場のおかれた幕府は元より、諸藩や、尊皇攘夷派の志士たちも、欧米への関心を掻き立てられた。
吉田松陰や、その高大で尊攘派の久坂件瑞などの武士たちは、欧米列強との差を知って切迫感を感じた。西洋学を学ぼうとせずにいられなかったのである。
攘夷派の急先鋒である長州藩は、それゆえに西洋探求の急先鋒ともなった。後に、井上馨や伊藤博文は長州藩の許可の下で、...