物理部と電子部の設立

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    物理部と電子部の設立
     
    逓信省から商工省(通産省)への移管
     一九四八(昭和二三)年八月、逓信省電気試験所は、電力部門は商工省工業技術庁傘下の電気試験所に、一方、通信部門は逓信省電気通信研究所に分割された。この分割については、「多分に自主的な性格を有していた」という面がないではなかったが、直接的には「外部からの強制」、すなわち電話通信網の整備を何よりも重視した占領軍総司令部(GHQ)民間通信局(CCS)の意向があった(1)。CCSはアメリカのベル研究所をモデルにして電気通信研究所を発足させたのである。一方、電力部門は電気試験所という名称は継承したものの、独立官制を有する試験研究機関から商工省の外局の工業技術庁へ移管されたことによって、電気試験所に配属された所員たちは格下げになったとの印象をもったという。しかも、電気試験所の性格として「電気通信事業を除く電気一般の工学的研究並びに試験を行い……」と明記された(2)。その結果、電気試験所は、電気通信分野に代表される弱電部門を研究対象とすることができなくなってしまった。当然のことながら、その後の電気試験所は、かつての分身である電気通信研究所の研究動向やその成果に注目しながら、自らの研究分野を模索していかざるをえなくなった。ともあれ新しく発足した電気試験所は、永田町に本部を移し、標準検定、電力、材料、応用の四部の他、二課、一試作場、一電気技術相談所、六支所で構成され、定員は八七八名から成っていた。電気試験所は、通信部門を失ったとはいえ、工業技術庁が所轄する一二の試験研究所群の中ではひときわ巨大な存在であった。なお、商工省は一九四九(昭和二四)年、通商産業省(以下、通産省と略記)となった。
     電気通信研究所の分離独立によって、弱電部門を切り離され、強電部門に専心することになった電気試験所にとって新たなライバルが登場した。一九五一(昭和二六)年の九電力会社体制の発足を背景にして翌五二(昭和二七)年に設立された(財)電力中央研究所である。電力中央研究所は民間の研究所であり、当初は予算も所員数も少なかったが、九電力会社の利益の○、二パーセントを研究予算として寄付されることになっていたため、次第に規模を拡大し設備や研究内容を充実させていった(3)。
     電気通信研究所と電力中央研究所が設立されたために、戦前・戦中を通じて電気関係の唯一の試験研究機関として独自の地位を確立していた電気試験所は、一九五○年代以降、弱電は電気通信研究所と強電は電力中央研究所とそれぞれ競合しつつも、あからさまに重複しないような研究テーマを見つけだし、その存在をアピールせねばならないという困難な状況に置かれることになったのである。
     
    トランジスタの研究・開発--物理部の設立まで
     皮肉なことに、電気試験所から通信部門が分離されたのと同じ一九四八(昭和二三)年、アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、その後のエレクトロニクス革命の幕が切って落とされた。
     トランジスタ発明のニュースは、電気試験所分割の直前、我が国に伝えられた。分割後の電気試験所でも、所長の駒形作次自身が戦前から半導体に興味をもっていたこともあって、早くも同一九四八(昭和二三)年十月から、永田町本部で所長以下、材料部物理課長鳩山道雄ら所員だけでなく、東北大学教授渡辺寧、東京大学教授久保亮五らのほか、東芝、日本電気、日立などの企業人も加えてトランジスタ勉強会が発足した。
     この勉強会は

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    物理部と電子部の設立
     
    逓信省から商工省(通産省)への移管
     一九四八(昭和二三)年八月、逓信省電気試験所は、電力部門は商工省工業技術庁傘下の電気試験所に、一方、通信部門は逓信省電気通信研究所に分割された。この分割については、「多分に自主的な性格を有していた」という面がないではなかったが、直接的には「外部からの強制」、すなわち電話通信網の整備を何よりも重視した占領軍総司令部(GHQ)民間通信局(CCS)の意向があった(1)。CCSはアメリカのベル研究所をモデルにして電気通信研究所を発足させたのである。一方、電力部門は電気試験所という名称は継承したものの、独立官制を有する試験研究機関から商工省の外局の工業技術庁へ移管されたことによって、電気試験所に配属された所員たちは格下げになったとの印象をもったという。しかも、電気試験所の性格として「電気通信事業を除く電気一般の工学的研究並びに試験を行い……」と明記された(2)。その結果、電気試験所は、電気通信分野に代表される弱電部門を研究対象とすることができなくなってしまった。当然のことながら、その後の電気試験所は、かつての分身である電気通信研究所の研究動向やその成果に注目しながら、自らの研究分野を模索していかざるをえなくなった。ともあれ新しく発足した電気試験所は、永田町に本部を移し、標準検定、電力、材料、応用の四部の他、二課、一試作場、一電気技術相談所、六支所で構成され、定員は八七八名から成っていた。電気試験所は、通信部門を失ったとはいえ、工業技術庁が所轄する一二の試験研究所群の中ではひときわ巨大な存在であった。なお、商工省は一九四九(昭和二四)年、通商産業省(以下、通産省と略記)となった。
     電気通信研究所の分離独立によって、弱電部門を切り離され、強電部門に専心することになった電気試験所にとって新たなライバルが登場した。一九五一(昭和二六)年の九電力会社体制の発足を背景にして翌五二(昭和二七)年に設立された(財)電力中央研究所である。電力中央研究所は民間の研究所であり、当初は予算も所員数も少なかったが、九電力会社の利益の○、二パーセントを研究予算として寄付されることになっていたため、次第に規模を拡大し設備や研究内容を充実させていった(3)。
     電気通信研究所と電力中央研究所が設立されたために、戦前・戦中を通じて電気関係の唯一の試験研究機関として独自の地位を確立していた電気試験所は、一九五○年代以降、弱電は電気通信研究所と強電は電力中央研究所とそれぞれ競合しつつも、あからさまに重複しないような研究テーマを見つけだし、その存在をアピールせねばならないという困難な状況に置かれることになったのである。
     
    トランジスタの研究・開発--物理部の設立まで
     皮肉なことに、電気試験所から通信部門が分離されたのと同じ一九四八(昭和二三)年、アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、その後のエレクトロニクス革命の幕が切って落とされた。
     トランジスタ発明のニュースは、電気試験所分割の直前、我が国に伝えられた。分割後の電気試験所でも、所長の駒形作次自身が戦前から半導体に興味をもっていたこともあって、早くも同一九四八(昭和二三)年十月から、永田町本部で所長以下、材料部物理課長鳩山道雄ら所員だけでなく、東北大学教授渡辺寧、東京大学教授久保亮五らのほか、東芝、日本電気、日立などの企業人も加えてトランジスタ勉強会が発足した。
     この勉強会は翌一九四九(昭和二四)年四月には文部省の研究費を得て渡辺寧を委員長とする「トランジスタ研究連絡会」として公的な研究会となった。所轄の工業技術庁の研究費ではなく文部省の研究費に依ったのは、トランジスタの研究が「電気通信」に関連するため、新しく発足した電気試験所の研究範囲とはみなされないであろうとの判断からだった(4)。
     永田町本部における公式の研究連絡会とは別に田無分室にあった材料部物理課でも課長の鳩山の判断で独自にトランジスタに関する研究が開始された。鳩山は理化学研究所出身ということもあって自由闊達な研究的雰囲気の醸成につとめ、また基礎研究を重視していた(5)。電気試験所におけるトランジスタ研究の成果は、一九五○(昭和二五)年四月に、鳩山らが中心になって開催した、日本物理学会におけるトランジスタに関するシンポジウムで披露されたし、この年に創刊された『電試ニュース』第5号の「トランジスターのゆくえ」と題された無署名記事にもみることができる(6)。この記事には点接触型トランジスタの動作原理が図および写真入りで手際よく紹介されている。また、電気試験所の研究紀要『電気試験所彙報』にも、一九五○年あたりから、半導体・トランジスタ関連の研究報告が散見されるようになる(7)。
     しかし、電気試験所では、基礎的な研究に主力が注がれた結果、駒形所長がアメリカから直接持ち帰ったトランジスタをフォーミングして増幅作用を確かめるのが精一杯でトランジスタを実際に制作することはできなかった。そのため、国産初のトランジスタ制作の栄誉については、電気試験所と並行してトランジスタ研究に取り組んでいた電気通信研究所に先を越されることになってしまった。電気通信研究所は、一九五一(昭和二六)年、高純度のゲルマニウム単結晶を用いたトランジスタの制作に成功したのである(8)。
     トランジスタの制作に関して、ライバル研究所に先を越された電気試験所ではあったが、制度上の改変を機に状況改善の手がかりをつかんだ。すなわち、一九五二(昭和二七)年、逓信省の業務のうち電信電話部門を継承していた電気通信省が日本電信電話公社として公共企業体に移行したことに伴って電気通信研究所も公社所属となったのである(逓信省の郵便部門は郵政省が継承)。この結果、少なくとも名目的には、電気試験所が電気一般に関して唯一の国立試験研究機関としての地位を回復することになった(9)。
     一方、分割後の電気試験所では、部の増設と定員の増加をはかりながら、試験研究能力の回復向上がなされていた。すなわち、一九四九(昭和二四)年には、試作工場が工作部に改められ、一九五一(昭和二六)年には、電力部から機器部が、標準検定部から検定部がそれぞれ独立し、電気試験所の研究体制の充実がはかられた。さらに、一九五二(昭和二七)年、工業技術庁が工業技術院となったことに伴い、材料部物理課が独立して物理部となった。初代物理部長には鳩山が就任した。新しく発足した物理部でも、基礎研究重視の姿勢が貫かれた。このような姿勢は、例えば、
     
      物理部における電子技術五ヶ年計画への協力の根本思想は、ちみつで堅実な基礎研究を、諸外国で次から次ぎに発表される氷山の一角に幻惑されず、その表面下にかくされている基礎研究に注目しながら、我が国の科学技術の後進性を脱却するために、推進することこそわれわれの使命……
     
    という文言からも窺うことができる(10)。
     かくて、電気試験所は、一九五二(昭和二七)年度には、所長以下、電力、機器、応用、材料、物理、標準器、検定、工作の八部体制となり、定員も総計一、一八七名を数えるに至った。
     
    電子部の設立と電振法
     総理府科学技術行政協議会による各省研究者の海外留学制度によって一九五一(昭和二六)年、第一回留学生として電気試験所から応用部応用電力課長和田弘がアメリカに派遣された。翌年帰国した和田は、電気試験所における弱電部門強化に尽力する。和田は、アメリカでの見聞を通じてトランジスタに代表されるエレクトロニクス産業の重要性を強く印象づけられていたからであった。一九五三(昭和二八)年、和田が企画課長となったことによってこの路線は決定的となり、電子部の設立へ向けて、電子技術研究班(班長和田)を組織するなど、準備作業が開始された。
     当初の予定よりは少し遅れたが、回路課、部品課、電子計測課の3課から成る電子部が一九五四(昭和二九)年七月に発足した。初代部長は当然ながら和田が務めた。電子部の定員は五○名であり、物理部から一○名の定員を割くなどして所内から菊池誠ら有為な人材が集められた(11)。
     電子部の発足にあたって、和田らは旧来的な意味での電気通信分野を研究対象とするのではなく、当時は未知数の要素が多かった電子計算機の開発、しかもトランジスタを用いた電子計算機の開発を戦略目標に設定した。このため、昭和二八、二九年度の両年度、試験所に配分された特別研究費のかなりの部分が電子部における研究の立ち上げに費やされた。
    その結果、回路課では電子計算機の回路理論・回路技術を、部品課ではトランジスタなどの半導体部品・プリント配線などの研究開発が精力的に推し進められた。その結果、『電試ニュース』の「電子部軌道にのる--発足してちょうど一年」という記事にもみられるように、電子部は発足一年後には大きな成果を誇るに至った(12)。特に部品課半導体研究室は「昨年度ゲルマニウムの精製から始まるトランジスタの試作装置の整備を終わり、試作したトランジスタを用いて特性の改善、性能の安定化等に関する研究を進めている」と誇らしげに報告している。同じ一九五五年の『電気試験所彙報』にも、菊池誠・垂井康夫・伝田精一らによる「Point-Contact型トランジスターの電流増幅の機構」と題された論文が掲載された(13)。点接触型トランジスタの制作に関しては、ベル研究所に遅れること七年、電気通信研究所に遅れること四年であった。...

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