格闘技と男気(おとこぎ)
ここ数年、空前の格闘技ブームだという。古参のプロレスのみならず、K-1など新興の格闘技も隆盛を極め、グレイシー一族、小川直也、急逝したアンディ・フグなどなど、絶えず入れ替わりながらも格闘技界から、男気(おとこぎ)あふれた時代のヒーローが生まれている。 同時に、男性のファッションを見ていると、数年前のビジュアル系バンドやフェミニン・カジュアルの流行も、ほとんど跡形もなく消え去り、代わって幅を利かしているのは髪を短く刈り込み、体格は筋肉質で、服はスポーツウエア系の、いかにもリングから出てきたような人が目立って増えてきたように思う。 そのほかにも、広告では「男の」何々というキャッチコピーが散見され、時代は目立って「男気」を求めてきているようにみえる。 もちろんこういう言い方には、それ以外のものを見過ごしてしまうという危険が常に伴うのだが、今なぜ格闘技や、背景として男気が注目されているのか、考えてみようと思う。 まず、格闘技は勝ち負けがはっきりしている。あるいは選手の強弱がはっきりと、目に見えてわかる。 この点、男性の多くが直面している雇用関係の変化は、「球技」から「格闘技」へ、急速に変化している。すなわち、個々人の成果の見えず集団としての成果が問われるチームプレーから、個人の成果が求められ目標のためには同僚をも倒すことが求められる実力主義へと傾斜している。そのような中、格闘技の興行がターゲットとしている若手・中堅どころのサラリーマン層の支持が集まっている、といえるだろう。 ただ、格闘技ブームを、ジェンダーの視点から見ると別のものが見えてくる。 今まで、男性は男性であることを自覚しないでも、男性であることができた。しかし、雇用均等法・共同参画法など性差別を撤廃する動きがまがいなりにも機能し始めて、男性は当然に優位を主張できるというわけではなくなった。アイデンティティについても、当然に男性であるということを自認できなくなった。だからこそ、男気を自覚的に身につけ、主張しなければ、男は男たりえない。 このように、昨今の男性の男らしさ回帰は、保守化ではなくむしろジェンダーフリーの進展の度合いを示していると見るのは、楽観的過ぎるであろうか。 (Jan.2001)
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