パトリック・カリフィア『ジェンダーとトランスジェンダリズムの未来』

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    パトリック・カリフィア『ジェンダーとトランスジェンダリズムの未来』 「セックス・チェンジズ トランスジェンダーの政治学」より
     次の世代において、トランスジェンダーの活動家はボーンスタインの指し示したような道を進んでいくのか、それともより伝統的な公民権獲得型の手法をとっていくのか、興味深いところである。トランスセクシュアルなど、トランスジェンダーのコミュニティにいる人々が、「普通の」男性や女性になるという、医療の示したゴールを捨てる唯一の手段は、ゲイのコミュニティになぞらえられることがあるが、ジェンダーの規範を安全に、あいまいにできるような、自らのコミュニティをつくることであろう。こういったサブカルチャーを創造することは、莫大な時間と労力を要することである。しかし、これが恐らく、社会を変革する唯一の手段であろう。ジェンダーの二極化にかからない生き方を提示するのである。
     もっとも、ジェンダーレスな文化やコミュニティの建設は、偏見を持たれている特殊なアイデンティティから普通の凡庸なアイデンティティへの移行が不可能であるか、またはそれを望まないようなトランスジェンダーにとっても、関心の高いことであるとは思えない。トランスセクシュアルの大半は引き続き、できるだけ平穏に性別の再指定を受けようとするだろうし、後は望んで群衆の中に埋没していくであろう。この伝統的なグループが、トランスセクシュアルの多数派なのであろう。しかし、その中で相対的に少数の者しか、活動家になるという選択をしないため、トランスセクシュアルの政治の中での影響力は小さい。その結果、差異のある人が存在するという事実は、ラディカルな政治活動に楔を打ち込むことにならないのである。そして、典型的あるいは平均的といわれるところから離れている者ほど、方法は決まっているということを前提にして議論することを好みがちなのである。
     ゲイやレズビアン・コミュニティにおいても、中流アメリカ人の良き生活を得ること以外のものを求めない同化主義者と、そういったライフスタイルをほとんど望まないラディカルなクィアの間には緊張関係が存在する。同様に、性別再指定の過程を、真の性別を確証するためのものと捉えるトランスセクシュアルと、解放の可能性は生物学的性別を明らかにすることにかかっていると考えるトランスジェンダーの間の争いは継続するであろう。
     ただ、このトランス・アクティビズムの二つの側面が目的とするものは、二律背反であるように見えるものの、実際には健全なジェンダー観をもつ社会の実現のためには、両者とも重要なことである。ジェンダーの自由という概念がいかなる意味を持とうとも、生物学的性別あるいは出生時に指定された性別にこだわる人もいれば、望む性別に身体を適合させようとする者、さらには二元的な性別観そのものを疑う者は、それぞれ存在し続けるだろう。  残念なことに、それぞれの立場を代弁する者が、他の立場の正当性を理解できるようになる可能性があるかというと、五里霧中である。差異は常に、耐え忍ぶのに難しいものである。競争心が深く刷り込まれているため、最もラディカルな者にさえ、共通の課題ではないけれども、横断的な目的を持った作業に取り組むことへの反発が積もっている。結果として、争いと論争が激しくなる。しかし私は、トランスジェンダーのコミュニティと政治との関わりが脱線することはないと信じる。そして、トランスジェンダーの活動が進展するなら、幸いそうでない者も多くの利益を得るのである。
     異なったジェンダーを持つ者でなくても、トランスジェンダ

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    パトリック・カリフィア『ジェンダーとトランスジェンダリズムの未来』 「セックス・チェンジズ トランスジェンダーの政治学」より
     次の世代において、トランスジェンダーの活動家はボーンスタインの指し示したような道を進んでいくのか、それともより伝統的な公民権獲得型の手法をとっていくのか、興味深いところである。トランスセクシュアルなど、トランスジェンダーのコミュニティにいる人々が、「普通の」男性や女性になるという、医療の示したゴールを捨てる唯一の手段は、ゲイのコミュニティになぞらえられることがあるが、ジェンダーの規範を安全に、あいまいにできるような、自らのコミュニティをつくることであろう。こういったサブカルチャーを創造することは、莫大な時間と労力を要することである。しかし、これが恐らく、社会を変革する唯一の手段であろう。ジェンダーの二極化にかからない生き方を提示するのである。
     もっとも、ジェンダーレスな文化やコミュニティの建設は、偏見を持たれている特殊なアイデンティティから普通の凡庸なアイデンティティへの移行が不可能であるか、またはそれを望まないようなトランスジェンダーにとっても、関心の高いことであるとは思えない。トランスセクシュアルの大半は引き続き、できるだけ平穏に性別の再指定を受けようとするだろうし、後は望んで群衆の中に埋没していくであろう。この伝統的なグループが、トランスセクシュアルの多数派なのであろう。しかし、その中で相対的に少数の者しか、活動家になるという選択をしないため、トランスセクシュアルの政治の中での影響力は小さい。その結果、差異のある人が存在するという事実は、ラディカルな政治活動に楔を打ち込むことにならないのである。そして、典型的あるいは平均的といわれるところから離れている者ほど、方法は決まっているということを前提にして議論することを好みがちなのである。
     ゲイやレズビアン・コミュニティにおいても、中流アメリカ人の良き生活を得ること以外のものを求めない同化主義者と、そういったライフスタイルをほとんど望まないラディカルなクィアの間には緊張関係が存在する。同様に、性別再指定の過程を、真の性別を確証するためのものと捉えるトランスセクシュアルと、解放の可能性は生物学的性別を明らかにすることにかかっていると考えるトランスジェンダーの間の争いは継続するであろう。
     ただ、このトランス・アクティビズムの二つの側面が目的とするものは、二律背反であるように見えるものの、実際には健全なジェンダー観をもつ社会の実現のためには、両者とも重要なことである。ジェンダーの自由という概念がいかなる意味を持とうとも、生物学的性別あるいは出生時に指定された性別にこだわる人もいれば、望む性別に身体を適合させようとする者、さらには二元的な性別観そのものを疑う者は、それぞれ存在し続けるだろう。  残念なことに、それぞれの立場を代弁する者が、他の立場の正当性を理解できるようになる可能性があるかというと、五里霧中である。差異は常に、耐え忍ぶのに難しいものである。競争心が深く刷り込まれているため、最もラディカルな者にさえ、共通の課題ではないけれども、横断的な目的を持った作業に取り組むことへの反発が積もっている。結果として、争いと論争が激しくなる。しかし私は、トランスジェンダーのコミュニティと政治との関わりが脱線することはないと信じる。そして、トランスジェンダーの活動が進展するなら、幸いそうでない者も多くの利益を得るのである。
     異なったジェンダーを持つ者でなくても、トランスジェンダーの活動を支える者がいる。顕在化と基本的な公民権を得るために闘う少数者グループであれば、どこでも支える人々である。しかし、トランスセクシュアルや異性装者ではない者の大半にとって、トランスジェンダー・コミュニティの一員であることを強調するのは難しい。ゲイやバイセクシュアルの活動家にとっても同様である。トランスジェンダーが運動を遅らせる、迷惑をかける、信用を落とす原因であるという懸念が存在している。この懸念は、トランスジェンダーとゲイのコミュニティが究極的には重なっている、ということの否定に端を発している。しかし、トランスジェンダーがゲイ・バイセクシュアルのコミュニティに入ることが、即ゲイやバイセクシュアルの政治的要求事項のリストに、トランスジェンダーの要求を並べたことを意味するわけではない。
     ゲイやバイセクシュアルのコミュニティの中でも、このより偏見を持たれている者を除外して戦術を展開することは珍しくない。しかし、ゲイの運動が少年愛者や性的少数者の若者を否定し、見捨てることに成功した上で、見通しを立てることができたとしても、この戦略は運動を促進することには結びつかないだろう。疑心暗鬼にさせ、弱体化させるだけである。社会変革への展望を狭め、本来造るべき社会について批評的に考える力を損なう。主流の文化は常に、ゲイ・バイセクシュアルのコミュニティの中の主流派に、ドラァグ・クイーンやサド・マゾヒスト、児童愛者やトランスセクシュアルなどの「好ましからざる者」を劣位に置き、排除する義務を課す。しかし、それは自由には程遠いのである。一体我々は、道徳的に堕落した偽善者である多数派の異性愛者のために働く、セックスの公安委員会になることを欲するのか?
     そこには深い心理的な力学が働いていて、今日のアメリカの政治情勢において我々が是々非々で取り組めるものとは全く別の、不合理な力がかかっているのでないか。ジェンダーのゲームに勝ち残り、男性または女性のアイデンティティを獲得した者が、賞讃を得ている。伝統的なジェンダー・アイデンティティの獲得という試練がなくなるとき、勝ち残る価値は減少する。ジェンダーのふるまいの基準が顕著に変わり、「負け組」が低い地位に甘んじることを拒むなら、「勝ち組」が男性または女性になるために必要な苦行を正当化するのをやめるだろう。もちろん、男性または女性として受け入れられようと努力することは、苦行とは考えられていないかもしれない。自然に、努力しなくてもできることと思われてもいる。その課程に挫折しない限り、ジェンダー・アイデンティティを形作る、ゆがんだ飴と鞭の存在に気付く者さえ、ごくわずかかもしれない。トランスセクシュアルに対する憎悪と嫌悪のかなりの部分は、意思に反してジェンダーを担わされた痛みを思い起こさせられる不快感に由来するように思える。選択の機会が奪われ、非情に抑圧される事実を経験し、受け入れるという以外に、本質的に選択の余地はないと信じることは容易である。
     しかし、かつて初期のフェミニストたちが、コンシャスネス・レイジング(意識化)のグループを通じて、慎重に行っていたように、歴史を明らかにし考える時が来ているのである。男らしさまたは女らしさの名の下に、我々は何を被ってきたのか。それはなぜか。どのような可能性の扉が閉ざされたのか。自我のどのような部分が押し殺されたのか。どのような快楽と可能性が凍結されたのか。そして、そもそもこの過程が何のために存在するのかを問うことが重要である。だれの利益になっているのか。もちろん、子どもも青年も成人も含め、個人が必要としてではない。
     トランスジェンダーの人を受け入れ、連合するにあたっての壁はなお厚い。私はこの章を、いかにすればジェンダーの自由のための運動がすべての人々に肯定的な影響を持ちうるかについて、少しばかり光を投げかけるであろう問いかけをもって終わりたいと思う。ジェンダーの専制は現実には目に見えない。それを理解し歯止めをかけようとするなら、現に生起しているジェンダーを見つめる術を身につけなければならない。たとえジェンダーにおいて不適切なふるまいによって罰せられた経験がなかったとしても、また子どもが男性または女性の規範に従わないからといって叱られるのを目にしたことがないとしても、またはそういったひどい目に遭わせたことがないとしても。ジェンダーの選択が真の合意のもとに行われている社会に育ったなら、どのようなものになるのだろうか。青年期、あるいは成人に移行するのにおいて、性別を選択する通過儀礼が行われるなら、どうなるのだろうか。
     街で出会う人や、仕事場や、パーティーの席で、まず相手の性別を確かめるようなことがないような世界はどのようなものだろうか。他人への応対にはどのような影響があるのだろうか。あるいは他人はどのように応対するのだろうか。ジェンダーが特権や、ある種の人格のしるしや、家庭の中での役割を表すことがないとしたら。ジェンダーがある種のエロティックな、または精神的な行為を行う能力を示す、性的なフェティッシュや象徴であったとしたら、どのような形で公の顔と整合させるのだろうか。他人に会ったとき、まず相手の何を知りたがるのだろうか。動物占いの動物や、占星術の星座や、職業上の目標や、食べ物の好みや、宗教や、アレルギーや、セックスに応じるか否かが、ジェンダーを特定するのより重要ということがあるのだろうか。
     仮想現実と同じくらい容易に、現実でも性別を変えることができるなら、あるいは戻ることができるなら、一度はやってみたいと思わないだろうか。そうだとしたら、だれになりたいと思うのか。今はなれないと思っているその人は、何ができるのであろうか。反対の性別になるには、何を諦めなければならないのか。何が政治信条や服の趣味、食べ物の好み、運転のスタイル、仕事、身振り、街でのふるまいを変えるのだろうか。両性具有になった自分を想像し、大切だと思う特質を保ち、困ると思うそれを捨て去るこ...

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