「児童の権利に関する条約」制定の背景とその意義
近年、子供の人権が強く叫ばれ、子供を1人の人間として尊重する思想が強調されるようになった。しかし、その歩みはまだ始まったばかりである。子供が身分や階層にかかわりなく、尊重されるべきであるという思想は、18世紀の教育思想化ルソーによって強く明確に主張された。ルソーは、児童を単に大人を小さくしてものではなく、一人の人間としてその価値や人権を認めることの重要性を説いた。20世紀初頭には、エレン・ケイが20世紀を「児童の世紀」とすることを提唱し、児童の権利が最大限に尊重される社会を築くよう強調して以来、それは徐々に具体化されてきた。
しかし、1914年に第1次世界大戦が始まり、多くの子供たちが犠牲になった。こうしたことから、2度とこのようないたましいことを起こすことがないようにと、国際連盟が結成され、1924年に「児童の権利に関するジュネーブ宣言」が採択された。宣言の前文で「全ての国の男女は、人類が児童に対して最善のものを与えるべき義務を負う」と明言されている点はやがて「児童の権利宣言」に受け継がれた。しかし、この「ジェネーブ宣言」は、児童を権利の主体としてみるのではなく、不利な条件にある自動に特別な保護を保障しようとする性格をもち、児童の生存のための最低保障を意図するものにすぎなかった。
平和への祈りもむなしく、1941年、再び戦争が引き起こされた。そして1945年、多くの人命を奪い人類を不幸のどん底におとしいれた第2次世界大戦が終わった。この大戦で児童の被害がこの大戦で死亡したと言われる。
そして1945年、永遠の平和を確保しようと国際連合が結成され、1946年から児童の権利に関する憲章の作成作業が開始され、1959年には、「児童の権利宣言」が成立した。この宣言は、社会的弱者である児童の人権の保障を可能にするための特別の措置と配慮の必要性を宣言するだけでなく、児童を権利の主体としてとらえる姿勢が特に注目される。しかし、宣言は宣言以上の何ものでもないことから、1978年に国連のポーランド代表から児童の権利宣言を法的に拘束力のある条件にしようという提案があった。そして、その後検討が重ねられ、1989年国連総会において「児童の権利に関する条約」が全会一致で採択されたのである。
同条約は、前文と54条の条項で構成されている。前文には、「児童の調和の取れた発達のため」条約を定めたと、その趣旨が述べられている。1条から5条までには、子供の定義、差別の禁止、子供の最善の利益の第1義的な考慮、締約国の実施義務、親の指導の尊重が挙げられている。6条からは、生命への権利や親を知りかつ親に育てられる権利などの子供固有の権利、自由に意思表明する権利や教育への権利、さらに、経済的搾取や有害労働、麻薬や性的搾取・虐待からの保護、そして少年司法にいたるまでの規定の内容は広範囲に及ぶ。
この条約は、憲法を除くほかの法律に優越するものである、国内の法律や規則と条約の間に矛盾が生じた場合には条約が優先される。
なた、この条約には報告審査制度があり、条約を批准した各国政府は定期的に自国の児童の権利の状況を国連に報告しなければならない。国連では世界から選ばれた10人の子供の権利委員がその報告を審査し、その結果を発表するという制度である。日本については、1998年に提出した報告書に対し、本条約に対する日本の取組みは不十分であるとの判断を国連が下し、22項目にのぼる改善点が指摘されている。
この権利条約の意義は次のようなことであ
「児童の権利に関する条約」制定の背景とその意義
近年、子供の人権が強く叫ばれ、子供を1人の人間として尊重する思想が強調されるようになった。しかし、その歩みはまだ始まったばかりである。子供が身分や階層にかかわりなく、尊重されるべきであるという思想は、18世紀の教育思想化ルソーによって強く明確に主張された。ルソーは、児童を単に大人を小さくしてものではなく、一人の人間としてその価値や人権を認めることの重要性を説いた。20世紀初頭には、エレン・ケイが20世紀を「児童の世紀」とすることを提唱し、児童の権利が最大限に尊重される社会を築くよう強調して以来、それは徐々に具体化されてきた。
しかし、1914年に第1次世界大戦が始まり、多くの子供たちが犠牲になった。こうしたことから、2度とこのようないたましいことを起こすことがないようにと、国際連盟が結成され、1924年に「児童の権利に関するジュネーブ宣言」が採択された。宣言の前文で「全ての国の男女は、人類が児童に対して最善のものを与えるべき義務を負う」と明言されている点はやがて「児童の権利宣言」に受け継がれた。しかし、この「ジェネーブ宣言」は、児童...