今まで読んできた志賀直哉の作品には、『母の死と新しい母』、『和解』など、主人公の心情に焦点を当て、探求するものが多かったと思うが、今回私が取り上げた『児を盗む話』もそれに属するものであり、当時の志賀直哉の精神状態にも着目しながら、この作品を自我肯定の意識というテーマで論じていきたいと思う。
まず、『児を盗む話』が書かれたのは大正三年、志賀が三十一歳の頃であったのだが、その頃の志賀の精神状態はひどく不安定であったものと思われる。志賀は十八歳の時の足尾銅山鉱毒問題に対する意見の衝突、さらに家の女中との結婚を許されなかったことからの父との不和が続いており、志賀は父から離れて独立した生活をやっていかなければならないと決心し、ついに大正元年には長編『時任謙作』執筆のために家を出て尾道に移る。これは単に小説を書くためでなく、これをきっかけとして家と父の支配からの脱出を目論んだものと考えられるが、結局小説は書けず、翌大正二年には尾道を引き払い、家に戻って来ることとなる。このことは長編が書けなかったという作家としての自信喪失、自活を目指しながら再び父親のいる家に舞い戻って部屋住みの暮らしに頼らざるを得なかったという自己の無力といった二重の意味で志賀を痛めつけた。当時の志賀の苦しみは、東京の家へ帰って間もなく里見氏との散歩中に電車にはねられる事故に遭ったことからも察せられるが、これは挫折感から自分自身で列車に近付いた、自殺未遂に近いものだったのかもしれないとも考えられるのではないだろうか。
今まで読んできた志賀直哉の作品には、『母の死と新しい母』、『和解』など、主人公の心情に焦点を当て、探求するものが多かったと思うが、今回私が取り上げた『児を盗む話』もそれに属するものであり、当時の志賀直哉の精神状態にも着目しながら、この作品を自我肯定の意識というテーマで論じていきたいと思う。
まず、『児を盗む話』が書かれたのは大正三年、志賀が三十一歳の頃であったのだが、その頃の志賀の精神状態はひどく不安定であったものと思われる。志賀は十八歳の時の足尾銅山鉱毒問題に対する意見の衝突、さらに家の女中との結婚を許されなかったことからの父との不和が続いており、志賀は父から離れて独立した生活をやっていかなければならないと決心し、ついに大正元年には長編『時任謙作』執筆のために家を出て尾道に移る。これは単に小説を書くためでなく、これをきっかけとして家と父の支配からの脱出を目論んだものと考えられるが、結局小説は書けず、翌大正二年には尾道を引き払い、家に戻って来ることとなる。このことは長編が書けなかったという作家としての自信喪失、自活を目指しながら再び父親のいる家に舞い戻って部屋住みの暮らしに頼らざる...