日本におけるセツルメント運動は、1896年に「岡山博愛会」がはじまり、翌年夏、トインビーホールを見学してきた片山潜によって、東京神田三崎町に「キングスレー館」として開始された。片山潜はその中で、幼稚園の設立、渡米案内、労働者教育等々の事業をやり、当時の日本としては進歩的自由主義者、キリスト教自由主義者とならんで、社会運動の一翼をにない、貢献した。
学生セツルメント運動は、大正デモクラシーの中で広がっていった。なかでも、1923年の関東大震災の際に活躍した帝大学生救護団を母体とする帝大セツルメントは「教授・学生は知識の独占者にならず、それを平等に分かち合う義務があること」や「学生というものは象牙の塔から出て、実社会のなかで学問しなければならないこと」を強調し、医療部、託児部等の活動を行なった。しかし1930年代以後、戦争政策が遂行される中、危険な思想とみなされ、本来の社会改良主義的な方向性を失っていった。
第2次世界大戦後、1949年のキティ台風の際に、東大の医学部生が救済活動を行なったのをきっかけに、東大セツルメントが発足し、学問と芸術の確立・健康で文化的な生活を築く・平和と民主主義を守る、をスローガンに活動を開始しました。そして、その後全国の大学でも、学生セツルメントの動きが活発になった。1955年11月27日は、全国セツルメント連合結成大会が東京教育大学で開かれ、北は札幌から南は福岡まで26団体150名が参加した。
グループワークの母胎となったYMCAやセツルメント運動は、日本にも早くから紹介されている。
YMCAは1880年に東京に設立され、その後大阪、横浜、神戸、が創立され、内村鑑三、新渡戸稲造、新島襄など当時の社会を代表する青年、青年牧師など20歳代の青年たちがYMCA運動を興した。YMCAは、青少年の余暇活動に取り組んでいたが、社会福祉援助活動の専門技術として集団援助技術をとらえるという考え方はまだ成立していなかった。
日本におけるセツルメント運動は、1896年に「岡山博愛会」がはじまり、翌年夏、トインビーホールを見学してきた片山潜によって、東京神田三崎町に「キングスレー館」として開始された。片...